宣孝の死亡フラグ?まひろの娘、実際は誰の子?ほか…大河ドラマ「光る君へ」7月14日放送振り返り
石山寺で藤原道長(柄本佑)と交わって子をなし、離婚を決意するまひろ(紫式部。吉高由里子)。しかし藤原宣孝(佐々木蔵之介)は「一緒に育てよう」と不実な妻を手放そうとはしません。
一方内裏では藤原彰子(見上愛)の入内にぶち当てるごとく中宮・藤原定子(高畑充希)が待望の皇子を出産。一条天皇(塩野瑛久)は母・藤原詮子(吉田羊)に永年の欝憤をぶちまけるのでした。
せっかく娘を「生け贄」として入内させたのに、これでは意味がありません。諦めかけた道長に入れ知恵する安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)。前代未聞の一帝二后をけしかけます。
果たして道長は、定子一派を駆逐することができるのでしょうか……。
第27回放送「宿縁の命」、そのサブタイトルはまひろが生んだ娘・藤原賢子(けんし/かたいこ。のち大弐三位)の事みたいですね。
宣孝がまひろを手放さなかったのは、愛情もさることながら打算もあったのでしょう。
それでは今週も、気になるトピックを振り返っていきましょう!
第27回放送「宿縁の命」時系列今回は長保元年(999年)のほぼ1年間が描かれました。
まひろは30歳(※天禄元年・970年生まれ説)、劇中で触れられた出来事を見てみましょう。
長保元年(999年) 2月 宣孝の通いが途絶える(※劇中の設定) 同月 石山寺でまひろと道長が密通する(※劇中の設定・創作と思われる) 10月19日 藤原実資が道長を訪ねて彰子の入内について話し合う 10月21日 道長が歌屏風の製作を開始する 10月23日 道長が実資に和歌の詠進を要請する 10月27日 道長が実資の和歌を催促する 10月29日 道長が和歌を詠進しない実資を譴責する 10月30日 道長が歌屏風を仕上げる 11月1日 藤原彰子が入内する 11月7日 藤原定子が敦康親王(一条天皇の第一皇子)を出産※宣孝はこれに奉仕する 同日 藤原彰子が女御宣下を受ける 11月11日 宣孝が賀茂の臨時祭で人長舞を演じる 11月27日 宣孝が宇佐神宮への勅使として京都を離れる 12月? まひろが藤原賢子を出産する
劇中では2月ごろとされていましたが、宣孝の通いが途絶えるのは確かなようで、『紫式部集』にも宣孝の浮気に嫉妬する和歌が多く残されています。
また道長は藤原実資(秋山竜次)の和歌≒支持にかなり執着しており、かなりしつこく要求していました。
最後まで突っぱね通した実資ですが、それで道長から疎まれるということもなく、かえって信頼されたようです。
主要人物の年齢は?藤原詮子。政争にくたびれた感じだったが、当時まだ38歳の若さである(画像:Wikipedia)
まひろ:30歳(天禄元年・970年生まれ説) 藤原宣孝:50歳前後? 藤原道長:34歳(康保3年・966年生まれ) 源倫子:36歳(康保元年・964年生まれ) 藤原彰子:12歳(永延2年・988年生まれ) 赤染衛門:44歳?(天暦10年・956年ごろ生まれ) 一条天皇:20歳(天元3年・980年生まれ) 藤原定子:24歳(貞元元年・976年生まれ) 藤原詮子:38歳(応和2年・962年生まれ) 藤原公任:34歳(康保3年・966年生まれ) 藤原斉信:33歳(康保4年・967年生まれ) 藤原行成:28歳(天禄3年・972年生まれ) 源俊賢:40歳(天徳4年・960年生まれ) 藤原実資:43歳(天徳元年・957年生まれ) 安倍晴明:79歳(延喜21年・921年生まれ)関連:
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まひろの娘・藤原賢子(大弐三位)とはまひろと道長の不実によって生まれた娘・藤原賢子。実際はちゃんと宣孝の子でした。
陰キャで奥手な母親とは正反対だったようで、恋多き女性として知られます。
主な交際相手は藤原頼宗(道長の次男)や藤原定頼(公任の長男)、源朝任(倫子の甥)など実に華やかでした。
やがて藤原兼隆(道兼の次男)と結婚、のち高階成章(たかしなの なりあきら)と再婚します。
また母の後を継いで藤原彰子にも仕えるなど活躍しました。
ちなみに女房名として有名な大弐三位(だいにのさんみ)とは、後夫の高階成章が大宰大弐(だざいのだいに)に任じられ、自身が従三位(じゅさんみ)に叙せられたことに由来します。
ほか時期によって藤三位(とうのさんみ)・越後弁(えちごのべん)・弁乳母(べんのめのと)などと呼ばれました。
また80過ぎまで生きて女流歌人として活躍しているので、本作ではかなりパワフルな人物として描かれるのではないでしょうか。
定子が生んだ皇子・敦康親王七日丙戌 卯刻中宮産男子、前但馬守生昌三條宅、世云横川皮仙、……
※藤原実資『小右記』長保元年(999年)11月7日条
【意訳】11月7日の朝6:00ごろ、定子が皇子を産んだ。場所は三条にある平生昌(なりまさ。平惟仲の兄弟)宅、世にいう「横川の皮仙(かわひじり)」である。
……この横川の皮仙とはざっくり「出家者が産んだ子」「生まれるべきでない、祝福されない子」といった意味になります。
劇中でも定子が嘆いていましたね。ともあれ生まれたものは生まれたのです。
敦康親王は翌長保2年(1000年)に親王宣下を受けます。現代と異なり、天皇陛下の皇子であっても無条件で親王となる訳ではありませんでした。
これは一条天皇が定子との皇子に帝位を継承させたい意思の表れですが、同年の暮れに定子が崩御してしまいます。
後ろ楯のない敦康親王は彰子の養子として育てられ、はじめは道長も可愛がりますが、やがて彰子が皇子を産むと粗略にされていきました。
結局東宮(皇嗣)になったのは彰子が産んだ敦成(あつひら)親王。後の後一条天皇です。
正統な皇位継承者でありながら粗略にされた敦康親王に対して、人々は同情を寄せたと言います。
……御才(おんざえ)いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞおはしましし……
※『大鏡』
【意訳】(敦康親王は)才能があり、心ばえも素晴らしくあらせられた。
……道長の思惑によって皇位を継承できなかった敦康親王は風雅の道に生き、寛仁2年(1019年)12月17日に21歳で薨去されたということです。
宣孝の激務と死亡フラグ劇中でもふれていた通り、宣孝はこの時期何かと多忙でした。
何かとお役目に与(あずか)れば覚えめでたく、その後も出世が期待できます。
それもこれも、すべてはまひろが道長と通じてくれるお陰……なんでしょうね。何だか宣孝自身の努力や才能ではないようで、ちょっとモヤモヤします。
ともあれこの時期の様子をまとめてみましょう。
長保元年(999年) 11月7日 定子の出産を奉仕 11月11日 賀茂の臨時祭で人長舞を披露 11月27日 宇佐神宮への勅使として京都を発つ 長保2年(1000年) 2月3日 帰京する 4月1日 平野臨時祭の勅使を務める 7月27日 相撲節会に列席する 10月15日 殿上の雅楽に奉仕する 長保3年(1001年) 1月2日 供御薬事に奉仕する 2月5日 春日大社の祭礼で代官を命じられるも、痔が発症したため辞退 4月25日 病のため卒去(流行病?痔?大腸がん?)こうして見ると「数ヶ月ごとじゃん。そんなに忙しいの?」と思うかも知れませんが、これらの儀式などは当日パッと出来るものではないのです。
現地に行ったり戻ったり、会場準備や物品調達などもしなくてはなりません。
更には日取りが凶ならば準備も進められず、なかなか日程がままならないのでした。
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第28回放送「一帝二后」次週でまひろが「逝かないで」と言っていたので、一気に長保3年(1001年)まで進むのでしょうか。
宣孝と円満な紫式部が見たかったですが、それはまたいつかのお楽しみにしましょう。
さて次回はサブタイトル通り「一帝二后」。一人の帝に皇后陛下と中宮陛下の后二人という、前代未聞の荒業を道長はやってのけました。
皇后陛下に祭り上げられた定子は長保2年(1001年)の暮れに第二皇女の媄子内親王(びし/よしこ)を出産するも、間もなく崩御されてしまいます。
果たして次週はどんな展開が待っているのか、目が離せませんね!
トップ画像: 大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
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