後醍醐天皇が討幕を考えたきっかけは?実は最初は幕府と強調しようとしていた (3/3ページ)
鎌倉幕府が後醍醐を無実と判断したのも、右のように考えれば説明がつくでしょう。
側近の日野資朝が処罰されたのは、調査で朝廷が混乱するのを防ぐため。つまり、後醍醐は謀略に巻き込まれた被害者だということです。
子が即位する可能性があった
そもそも、正中の変が起きた時期に、後醍醐には幕府を打倒する動機がありませんでした。幕府を後ろ盾にして、後醍醐の実子が即位できる可能性があったからです。
後醍醐には、幕府と関係の深い西園寺家出身の皇后がいました。彼女は第二皇子である世良親王を産んでいます。第一皇子は持明院統の妨害によって第一継承者になれませんでしたが、世良親王であれば幕府の協力を受けて皇位につける可能性がありました。
しかし、天皇の目論見は外れます。期待をかけた世良親王は元徳2年(1330)に病死しました。同じく西園寺家出身の中宮が子を産むよう出産祈祷を命じたこともありましたが、願いは叶いませんでした。
実子が即位する可能性がなくなったことは、天皇が討幕を考えるようになった大きなきっかけになったと考えられます。そして元弘の変に至るのです。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
画像:photoAC,Wikipedia
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan