不気味すぎる…赤い着物のおかっぱ禿たちが都を監視!平清盛が放った子どものスパイ集団の実態【前編】

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不気味すぎる…赤い着物のおかっぱ禿たちが都を監視!平清盛が放った子どものスパイ集団の実態【前編】

「スパイ」という存在がいることは知っていても、実際に会ったことがあるという人は、ほとんどいないのではないでしょうか。

一般的にスパイというと、派手なアクションが人気の海外映画の主人公や、洋の東西を問わず実在した男女のスパイを思い浮かるかと思います。

日本で有名な実在のスパイとして名前が挙げられているのは、古くは明治・大正期の陸軍軍人などですが、実は平安時代には「子どものスパイ集団」がいた……という話があるのです。

強権・平清盛が子どものスパイを使っていた!?

時の絶大な権力者が、幼い子どもを集めて京の都中を探り歩かせ、政権の悪口をいうものがいたら片っ端からリークするスパイ活動をさせていた……という話が伝わっているのは、平安時代末期の武将で、武家としては初めて太政大臣まで上り詰めた平清盛です。

日本史には興味のない人でも、「平家にあらずんば人にあらず」という言葉を耳にしたことはあると思います。

平時忠(たいらのときただ/清盛の妻の弟)の発言なのですが、いかにも平清盛が率いる平家一門の驕りを象徴するような言葉で、平清盛自身も自信家・野心家の権力者というイメージが強いですよね。

そんな強権の平清盛が、自分に対する都の人々の悪口に神経質になり、幼子にスパイ活動をさせていたとは、ちょっと意外にも思えます。

本当は白河天皇の子だった!?

白河天皇(wiki)

娘を天皇の中宮とし、天皇の外祖父となり権力をほしいままにするも、その専横ぶりが反感を買うこととなった平清盛。

清盛は、永久6年1月18日(1118年)、伊勢平氏の棟梁である平忠盛(たいらのただもり)の嫡男として生まれました。

母親は、白河法皇の寵愛を受けていた祇園女御(ぎおんのにょうご)の妹で、姉に支えているうちに法皇に目をつけられ姉同様に寵愛を受けた女性という説があります。(祇園女御だったという説もあり)

そして懐妊したまま忠盛に下賜され、生まれたのが清盛なのではないかといわれているのです。その生母とは早くに死に別れてしまった分、忠盛は異常なほどの愛を清盛に注いだとか。

仁平3年(1153)父・忠盛の死後、清盛は平家武士団の棟梁として、平家一門を率い、軍事貴族の一人として鳥羽院に仕えることとなりました。

その後、保元・平治の乱で勝利をおさめ平氏政権を樹立。度重なる政争を勝ち抜いた平清盛とその一族は、平氏の全盛期を築き上げたのでした。

「六波羅行幸巻」源義朝らに幽閉された二条天皇が女房姿で内裏をひそかに脱出し、平清盛の六波羅邸へ逃れる図(wiki)

清盛の手腕は、さまざまな物語・映画・ドラマほか作品化されているため、歴史にそれほど詳しくないという人でも知っているのではないでしょうか。

平清盛の人物像は、猛々しく強引で自信満々の激情家で、権力基盤を形成してからは決して逆らうものを許さなかったとされます。

一説によると、築き上げた地位を揺るがぬものとするためには、どのような悪どい手段も厭わなかった……とも伝わっているほどです。

月岡芳年 作「大日本名将鑑 平相国清盛」沈んでいく日を清盛が「戻せ」と叫び、日が再び高く登ったという「日招き伝説」

誰も悪口をいわないはスパイに監視されていたから…

京の都に放たれた300人もの赤い着物でおかっぱの禿たちのイメージ

『平家物語』の「禿髪」の章によると、どんなに優れた賢王や摂政関白の政治であっても、何かにつけて世間の人は批難したりするものだが、出家した清盛政権が最盛期だったころには、だれも平家を軽んじたり批判をするようなことは口にしなかった……とあります。

よほど、皆、清盛を敬い政権に満足していたのだろうと思いきや、実はその真逆でした。

誰も平家の悪口をいわなかったのは、清盛は300人もの子どものスパイを都に放ち、いろいろなところに潜入させて「誰か、悪口を言ってるものはいないか」を探らせていたから……という驚きの理由があったのです。

「六波羅殿の禿」と呼ばれ、都の人どころか宮中の役人でさえ恐れていたという子どもたち。想像しただけでも、ぞっとします。

どんな子どもたちだったのか……

次回の【後編】に続きます。

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