幕末の「江戸城無血開城」は勝海舟の実績ではなかった!実は手柄を横取り、話は盛りすぎ… (3/4ページ)

Japaaan

鳥羽伏見の戦いでの敗北後、将軍の慶喜は上野寛永寺へ謹慎し、新政府軍へ恭順の意を示していました。

しかし、新政府は慶喜の真意を測りかね、江戸への進軍をやめませんでした。

そこで慶喜は、降伏交渉の使者を西郷のいる駿府に派遣することを決めます。このとき選ばれたのが、山岡鉄舟でした。

その結果、鉄舟は交渉を成功させ、西郷は江戸城引き渡しと引き換えに、慶喜の助命を認めたのです。

二人の会談は何度か行われましたが、最後の会談は3月9日のことです。勝と会談した4日ほど前には、すでに無血開城の大筋は決まっていたことになります。

なお、鉄舟は勝の命令で派遣されたという説もありますが、これは勝本人が『氷川清話』の中で「初対面だった」と否定しています。

山岡の手柄を横取り

では、既に無血開城は決定していたにも関わらず、江戸城で勝と西郷が会ったのはなぜでしょうか?

それは、最後の確認作業をするためでした。駿府で合意したとはいえ、正式な決定がない以上、立場のある幕臣と調整を進めなければなりません。そこで勝が調整役になったというわけです。

これが勝ひとりの手柄として広まったのは、勝本人が自分の功績として喧伝したからです。

西南戦争で西郷が死ぬと、勝は明治14年(1881)に「江戸の総攻撃中止は自分が主導した」との報告書を、勲章・褒賞などを所管する賞勲局に提出しました。

これにより、江戸無血開城は勝の功績として語られることになったのです。

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