日本史上屈指の偉人・聖徳太子の実績を全否定!『日本書紀』によって歪められた人物像【前編】
否定される聖徳太子の功績
冠位十二階や十七条の憲法の制定で知られる聖徳太子は、紙幣の肖像に採用されたこともある人物です。おそらく、日本で最も有名な偉人のひとりと言っても過言ではないでしょう。
『絹本著色聖徳太子勝鬘経講讃図』(鎌倉時代)より、聖徳太子の部分(Wikipediaより)
聖徳太子の偉業は、次の点に集約されます。彼はまず、遣隋使を派遣して大陸の制度を吸収しました。そして日本初の明文化法である十七条の憲法を制定し、天皇中心の国づくりを掲げます。
さらに、血筋を重視する社会を改変すべく、冠位十二階による能力主義を取り入れました。
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しかし、こうした評価は近年急速に変化しています。
極端なものでは、聖徳太子は実在の人物ではなかったという説がありますね。
しかしここでは、もう少し地に足がついた新説として、冠位十二階は聖徳太子ではなく、他の豪族もしくは天皇が大陸の制度を参考にしてつくったものだと考えられるようになったという説などをご紹介しましょう。十七条の憲法の制定についても、聖徳太子の関与を疑う意見があります。
研究の進展により、聖徳太子は国政の主導者ではなく、国政の協力者として評価する向きが強くなっているのです。
そもそも「聖徳太子」ではなかったまず、呼称の話から入りましょう。ご存じの通り、聖徳太子という呼び名は後世の創作です。近年は、厩戸王(うまやどのおう)と呼ばれることが多くなりました。
厩戸王は用明天皇の皇子で、母は有力豪族である蘇我一族に連なる人物です。この厩戸王を称えるために、死後しばらくしてから使われた呼び名が「聖徳太子」です。
さてそれで、死後に尊称が贈られるくらいだから、さぞ大きな功績を残したのだろうと思うかも知れません。
しかし先述した通り、前項で挙げた政治的実績は、現在では脚色が多いことが分かっています。
出典は、厩戸王の死から約100年後に完成した『日本書紀』(以下書紀)です。
もともと書紀は編纂時の都合で脚色されている箇所が多いです。そうした脚色を取り除くと、上記の事業を厩戸王が主導したとまではいえないことが分かるのです。
遣隋使も、憲法も、冠位十二階も…まず、遣隋使は厩戸王よりも前に「大王」が派遣したという記事が中国の史料「随書』に残っています。
この大王というのが誰を指すのかは諸説あり(推古天皇や蘇我馬子などを指すという説もある)、厩戸王だと言い切れるほどはっきりした根拠はありません。
また十七条の憲法に関しては、豪族の権力が強かった当時、天皇中心の国づくりを謳うことが本当にできたのかという疑問が出ています。
そして冠位十二階に至っては、厩戸王が主体的に関わった証拠はありません。遣隋使派遣とならび、これは政治を主導していた推古と蘇我馬子の関与が強いと考えるのが自然でしょう。
こうして見ていくと、聖徳太子もとい厩戸王の政治的実績や、彼に関する日本史学上の通説をことごとく否定しているかのようですね。
では、実際の彼はどのような人物だったのでしょうか? 【後編】ではそうした点にスポットを当てて解説します。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
画像:photoAC,Wikipedia
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