天皇が女官を裸にして相撲をさせたのが始まり!?古来からある「女相撲」の歴史【後編】

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天皇が女官を裸にして相撲をさせたのが始まり!?古来からある「女相撲」の歴史【後編】

相撲は男同士が行うもので女人禁制のイメージがありますが、『日本書紀』の記述には、雄略天皇13年(469年)の頃。天皇が突然、女官たちに裸になって相撲をするように命じた……ということが記されています。

古墳時代にはすでに誕生していた「女相撲」。時代の流れとともに、どのように変化していったのでしょうか。

前編の記事はこちらから↓

天皇が女官を裸にして相撲をさせたのが始まり!?古来からある「女相撲」の歴史【前編】

「裸の女相撲」を仕掛けた雄略天皇

雄略天皇(尾形月耕)

『日本書紀』によると、雄略天皇13年(469年)の頃、非常に優れた腕前を持つ猪名部 真根(いなべ の まね/韋那部 真根)という木工・墨縄職人がいたとか。

台座の石の上に木材を置き、刃先を誤ることなく作業をする真根に、あるとき雄略天皇が「もし失敗したらどうする?」と尋ねたそうです。

「私は失敗しないのです」とあっさり答える自信満々の真根をからかってやろうと思ったのでしょうか。

雄略天皇は、真根が仕事をしているところに、自分の采女(女官)たちを引き連れてきて、女官たちに裸になって褌姿で相撲をすることを命じたそうです。

褌一枚で胸も露わなほぼ裸の女性たちが、抱き合っての大取り組みを始めたので、さすがに真根も見とれてしまい、手元を滑らせて刃を石に当ててしまいました。

天皇に豪語しておきながらミスをしたと真根は危うく処刑されるところでしたが、仲間が彼の匠の技が失われてしまうことを憂う歌を詠み、それを聞いた雄略天皇が処刑を中止したそうです。

現代では考えられないような逸話ですね。

女官装束の図『装束着用之図』wiki

室町時代には尼さんの力士もいた

さらに、16世紀に成立した世間話集『義残後覚(ぎざんこうかく)』の「比丘尼相撲の事」という項目には、室町時代の勧進相撲(興行相撲で大相撲の源流とされる)では「比丘尼(尼僧)」の力士が出場していたことが記されているそうです。

「比丘尼」近藤勝信

素人が行う草相撲や野相撲などではなく勧進相撲に登場していたそうで、室町時代も、相撲も土俵も「女人禁制」などではなかったことがわかります。

江戸勧進大相撲(勝川春章)

その後も江戸時代に入ってからは、現在の相撲の起源とされる勧進相撲が行われていましたが、原則として女性の相撲観戦が禁じられ許されても千秋楽のみだったという。

一説によると、当時の相撲は力士の熱烈なファン同士がエキサイトして頻繁に乱闘騒ぎを起こすために、危ないから女性は禁止になってという話もあります。

人気だった女相撲

反面、女相撲は人気があったようで、天明5年(1785年)の『鎌倉山/女相撲濫觴』という資料には、胸を露わにした裸姿に回しを付けた女性力士たちが相撲をとっている姿が描かれています。

その後女相撲は、一時人気が落ちますが、盲人男性である「座頭力士」との取り組みが江戸で評判となり、安永年間(1772年 – 1781年)から寛政年間(1789年 – 1801年)にかけては、女相撲の特集をした黄表紙、滑稽本も流行しました。

大関・関脇などのシステムは男の相撲と同じでしたが、四股名には「姥が里」「色気取」「玉の越(玉の輿の洒落)」「乳が張」「腹櫓(はらやぐら)」など、変わった名前が多かったようです。

明治に入ってからは、男女の取り組み・女力士の裸体が禁止、シャツや水着を用いるようになりました。

女力士として頂点に上り詰めた若緑関

明治中頃の相撲・東京(wiki)

明治が終わり昭和になっても女相撲は続きました。昭和初期に大活躍した女相撲力士で、興行女相撲の最高位である大関を務めた「若緑」という力士がいます。

大正6年(1917)、山形県に生まれた若緑(本名:遠藤しげの)は、幼いことから力自慢だったそうです。彼女は、地元にやってきた「石山女相撲」の興行をみて相撲取りになることを決意、17歳のときに角界入りしました。

あっという間に才能開花した若緑はわずか3年で大関に昇進し、トップスターの座につきました。ブロマイドも売れ日本全国のみならず台湾や満州まで巡業に行ったそうです。

「強いし、器量よし、太鼓に踊り、唄も大関若緑」

ファンの間ではこんな合言葉が流行るっほど人気の力士だったのですが、太平洋戦争が始まり興行は解散、若緑関も24歳で現役を引退することになりました。

土俵(photo-ac)

そして、昭和32年(1957年)愛媛県松山市での大相撲高砂部屋の巡業でのこと。4代高砂(第39代横綱・前田山)の強い要望により、若緑は、女人禁制とされていた土俵にあがり挨拶をすることになります。

若緑は「恐れおおいこと」と固辞したそうですが、4代高砂「そんな考えは時代遅れだ。日本の封建的な時代は戦争で終わったんだ」といい「責任は自分がとる」といったそうです。

そして、着物姿で土俵に上がった若緑

観衆からはどよめきの声が上がったものの、「いよ!若緑、日本一!」という掛け声がかかったそうです。それだけ観衆に愛されていた名実ともにトップスターだったということでしょう。

若緑の息子の遠藤泰夫氏によると、女で一つで三人の子どもを育て上げ60歳で亡くなったそうですが、晩年になってもこのときの出来事を嬉しそうに振り返っていたそうです。

泰夫氏曰く「女人禁制の議論だけではなく、日本には長年歴史のある女相撲があったことを知ってほしい。母親のような人がいたということを知ってほしい」とのこと。

近年では、「女子相撲」は日本より、むしろ海外、特にヨーロッパで熱心に行われており1999年にはドイツで初めての国際大会が開催。

現在では毎年秋に、世界女子相撲選手権大会が開催されています。スター選手も登場しているので、今後の発展が楽しみですね。

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