戦国時代、兵種別の部隊運用を可能とした「備(そなえ)」とは?その種類と意義について解説
騎馬武者・徒武者の違い
戦国時代は、兵を効率的に動かすために、兵種別の部隊運用が確立した時代でした。
寄親・寄子制における寄親になるような重臣は、戦時ともなれば、あらかじめ決められている軍役に従い、寄子を引き連れて参陣することになります。
軍役は現代の累進課税のようなもので、石高に応じて、動員する軍勢や用意する武器の数が決まっていました。
だから、石高が多い家臣ほど、動員する軍勢や用意する武器の数も多くなります。
戦国時代、750万石と最大級の石高を誇った織田信長(Wikipediaより)
なお、動員されたすべての兵卒が馬に乗れたわけではなく、騎乗が許されたのは最低でも100石級の武士からです。騎乗を認められた騎馬武者以外は、徒歩で戦う徒武者でした。
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略奪、強姦なんでもあり!実はとんでもなかった戦国時代の足軽たちのリアル実際に戦闘に参加するのは騎馬武者と徒武者だけであり、このほか、兵糧や弾薬を運ぶ小荷駄の要員も、領内から随行していました。
「足軽」と「備(そなえ)」戦国時代の末期に兵農分離が進むと、大名の家臣は専業武士となり、足軽が継続的に徴用されていきます。
こうして合戦では次第に、足軽が大量に動員された集団戦法が行われるようになりました。
もっとも、多くの足軽が勝手に動いては勝ちにくくなるばかりか、一部隊が敗走したときに総崩れになるおそれもあります。
軍勢の数が数千から数万に拡大するなか、鉄砲・弓・長鑓を持つ足軽、小荷駄などの部隊を、兵種に応じて規律ある組織にする必要が出てきました。こうして、戦時に組織された軍団の編成のことを「備(そなえ)」と呼びます。
特に武勇に秀でた武将は「赤備(あかぞなえ)」と呼ばれた(Wikpediaより)
備は、敵に近い方から先備・中備・旗本備・脇備・後備・殿備などといい、整然と並べられました。
ただし、備の編成は大名家ごとに異なっており、必ずしも基本的な形式が決まっていたというわけではありません。
それでも、一般的な傾向として、実際の戦闘になったときのことを想定して編成されるのが普通でした。
江戸時代にも引き継がれる「旗本」と備たちこの当時の戦いは、鉄砲・弓・長鑓を用いる足軽同士の衝突から始まったので、鉄砲・弓・長鑓を持つ足軽が先備となり、前線に並びます。
そして先備の後方に中備がおかれ、備の中心には総大将である大名が統率する旗本備がおかれました。
旗本備はいわば本陣であり、大名に直属する家臣が旗本として警固することになります。
なお、旗本は馬廻ともよばれ、家臣のなかでも精鋭が選ばれていました。大将が動じなければ軍に混乱は生じませんが、やたらと動き回っていては混乱します。反対に大将が泰然自若としていれば、兵士も安心するのでこの旗本備は決して後ろに退くことはありません。
この旗本備が崩れるのは、合戦に負けたときです。
そして旗本備の左右には脇備が、後方には後備や殿備がおかれました。備の最後方には兵糧や弾薬、陣地設営道具などを運ぶ小荷駄隊がひかえています。
兵糧や弾薬を運ぶ小荷駄隊は非戦闘員でしたが、味方が押されているときには戦闘への参加も余儀なくされました。
このようにそれぞれの備は独立しており、奉行となった重臣によって統率されていました。総大将は、使番とよぶ伝令によって侍大将に指示を与え、侍大将はその指示に従って備を指揮したのです。
江戸時代になると、実際に大名がこうした備えで実際に出陣することはなくなりました。ただし、参勤交代も軍勢の移動とみなされており、備の編成は、大名行列にも取り入れられています。
参考資料:
『歴史人2022年5月号増刊図解戦国家臣団大全』2022年5月号増刊、ABCアーク
画像:photoAC,Wikipedia
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