皇女・小松女院との不倫により左遷……清少納言の兄弟とされる清原正高の生涯【光る君へ】

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皇女・小松女院との不倫により左遷……清少納言の兄弟とされる清原正高の生涯【光る君へ】

平安文学の最高峰とも名高い『枕草子』。その作者である清少納言には、兄弟姉妹がいました。

今回はその一人・清原正高(きよはらの まさたか)について紹介。果たして彼はどのような人物で、どのような生涯をたどったのでしょうか。

皇女との密通により左遷される

小松女院と語らう清原正高(イメージ)

清原正高は生年不詳、母親について詳しいことは分かっていません。

また父親についても諸説あり、清原元輔(もとすけ)ではなく別人物(清原有雄、清原定信、定額など)とも言われます。

そもそも正高自身が実在せず、架空の人物であるとの説もあるとか。

伝承によれば、正高は少納言として朝廷に仕えていたと言います。

※もしかしたら、清「少納言」の女房名はここからとったのかも知れませんね。

しかし小松女院(こまつのにょいん。醍醐天皇の孫)と密通したことによって勅勘をこうむり、豊後介に左遷されてしまいます。

豊後介(ぶんごのすけ)とは豊後国(現代の大分県)の国司次官。もちろん現地に赴任しなければなりません。

※国司の中には在京のまま務める遥任(ようにん)が認められるケースもありました。

現地で家庭を築くが……。

入水する小松女院(イメージ)

天延元年(973年)に豊後国玖珠郡(大分県玖珠町・九重町)へ現地入りした正高は、山田郷の領主・矢野検校(やのけんぎょう)こと藤原久兼(ひさかね。矢野久兼)に婿入りします。

妻との間には嫡男の清原正通(まさみち)を授かりました。

ほか生母不明の子として清原通成(みちなり)と清原通次(みちつぐ)もいたそうですが、一説には彼らは正通の子とも言われハッキリしません。

そんな中、現地の伝承によると小松女院が正高に再開するため、11名の侍女を連れて訪れたと言います。

しかし正高にはすでに妻子があったため、絶望した小松女院らはことごとく入水して果てたのだとか。

正高は女院の死を深く悲しみ、その菩提を弔うため堂宇を建立。これが後に正高寺(しょうこうじ。大分県玖珠町)となりました。

やがて罪を赦された正高は京都へ帰ることとなり、その晩年を故郷の山科で暮らします。

しかし山科に戻って間もない万寿4年(1027年)2月15日、正高は世を去ったのでした。

清原正高・基本データ

豊後国へ赴任する正高(イメージ)

生没:生年不詳~万寿4年(1027年)2月15日没

両親:清原元輔?(諸説あり)/母親不詳

兄弟:清原為成、戒秀(僧侶)、清原致信、本人、清少納言、女子(藤原理能室)

位階:不詳

官職:少納言、豊後介

妻妾:矢野久兼女(正室)

恋人:小松女院(章明親王女)

子女:清原正通(嫡男)、清原通成?清原通次?

特技:横笛、和歌

終わりに

夜もすがら まさごの数を 声にして
寄辺の池の 蛙鳴くなり

※正高寺境内にある清原正高の歌碑。

【意訳】蛙たちが一晩中、池の周りの砂粒の数だけ≒無数に声を上げて、寄る辺ないやるせなさを嘆いている。

この歌は自分を想って身を投げた小松女院に手向けたものでしょうか。

今回は清少納言の兄弟と伝わる清原正高について紹介してきました。

中央の動きとはほとんどからみがないため、大河ドラマには登場しないでしょうが、こんな人がいたんだなくらいに興味を持ってもらえたら嬉しいです!

※参考文献:

太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1981年9月 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年4月

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