江戸時代のテロ未遂事件「慶安事件ー由比正雪の乱」の首謀者・由比正雪が革命へと突き進んだ理由 (3/4ページ)
正雪は、そのもとで楠流軍学を習得しやがて江戸・神田連雀町の裏屋を借り、軍学指南として独立しました。彼の楠流軍学は江戸で評判を呼びました。
当時、江戸では小幡景憲の甲州流軍学や北条氏長の北条流軍学が評判でしたが、由比正雪の楠流軍学は目新しく、また「高砂やー」などと謡をまじえながらの講義が面白かったようです。
そんなこともあり、正雪の道場には旗本や大名の家臣、浪人らが続々と集まってきました。
もともとあった幕政への疑問しかし正雪の道場に人が集まったのには、もう一つ理由がありました。彼の道場は人材斡旋センターのような機能も果たしていたのです。
多くの浪人は、正雪に大名家への仕官の斡旋を期待していました。大名家の家臣ともつきあっている正雪ならそれが可能だったのです。
さらに正雪は、自らが稼いだお金で困窮する浪人を養いもしました。彼は軍学者であり、福祉家でもあり、行政とも繋がりがある人材斡旋業者でもあったわけで、複数の顔を持っていたのです。
一方、そんな中で正雪は、浪人問題の深刻さや、仕官できる者とできない者の格差、旗本・御家人らの貧窮ぶりなどを痛切に知ることになります。そして幕府の無策に憤りました。それが、正雪に革命への道を進ませるきっかけになったと言えるでしょう。
自らが書き残した著作もないため、正雪の心の動きは推し量るしかないのですが、このように当時の状況からある程度は伺い知れます。
そうした傍証の中でも興味深いのは、彼は幕府との繋がりがあったにも関わらず、大名からの軍学者としての招きには最後まで応じなかったことです。
唯一、弟子にした大名は板倉重昌のみでした。小雪は彼以外の大名を弟子にはせず、もっぱら大名の家臣以下を弟子としていたのです。