【光る君へ】実際には赤染衛門とおしどり夫婦だった大江匡衡(谷口賢志)とは何者?その生涯をたどる (3/4ページ)

Japaaan

学問の道を極め、文章博士に

文章博士として活躍した匡衡(イメージ)

代々学者の家に生まれた匡衡は、祖父・大江維時(これとき)の薫陶を受けます。

英才教育によって7歳で読書を始め、9歳で詩を詠むようになりました。

やがて13歳で元服、漢代(中国古代王朝)の詩人・匡衡(きょう こう)にあやかって匡衡(まさひら)と改名します。

15歳で大学寮へ入り、16歳で寮試に及第。擬文章生(ぎもんじょうしょう)として紀伝道を学びました。

22歳で式部省試に及第して文章生となり、28歳でみごと対策に及第します。

この頃に赤染衛門と結婚、やがて嫡男の大江挙周を授かりました。

順調に学問を修め、妻子にも恵まれて順風満帆な匡衡でしたが、34歳の時に何者かの襲撃を受けます。

この時に左手の指(どの指を何本かは不明)を切り落とされてしまったのです。犯人は不明(藤原保輔か?)。

そんなことがあっても匡衡の学問熱が冷めることはなく、更に精進を重ねて東宮学士(とうぐうがくし)や文章博士(もんじょうはかせ)を歴任しました。

やがて正四位下・式部大輔(しきぶたいふ)まで昇り、一条天皇の御世において名儒と称えられます。

「長保(ちょうほう)」「寛弘(かんこう)」という元号や、一条天皇の皇子たち(敦成親王、敦良親王)の名づけ親となりました。

なお敦成親王(あつひら)は後に後一条天皇、敦良親王(あつなが)は後に後朱雀天皇となっています。

名国司と讃えられるが……。
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