日本は「脱税」「賄賂」は古代から!いにしえの税金逃れの手口と日本史上最初の「疑獄」事件を解説

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日本は「脱税」「賄賂」は古代から!いにしえの税金逃れの手口と日本史上最初の「疑獄」事件を解説

厳しい税制と脱税

我が国で古くから存在していた「脱税」「賄賂」について見ていきましょう。

日本には昔から税制度が存在し、同時に脱税も行われていました。

ます『魏志倭人伝』には、三世紀、卑弥呼の君臨していた邪馬台国には既に税制があったと記されています。

『魏志倭人伝』の邪馬台国に類似した遺構や遺物が次々と発見された吉野ケ里遺跡

五世紀になると、天皇や豪族は、それぞれ部民と呼ばれる農民や漁民、手工業者たちを私有して、食料や嗜好品、織物、工芸品、武器など、私生活や職務に必要なものを納めさせていました。

その他にも、私有民を宮殿や邸宅・古墳の築造、田畑の耕作にあたらせたり、召使や従者などとして労力を提供させていました。

七世紀後半以降は、国家が一括して税を徴収する制度に切り替えられ、租・庸・調などの税制が整備されます。

ただ、この税制改革によって、納税者の負担は非常に重くなりました。農民たちは、収穫した稲を税として納めるようになりましたが、自分たちは米を食べられなくなりました。

それに加えて布や絹、特産品を納税させられ、21歳~60歳の男性は60日(のちに三〇日)の「雑」と呼ばれる公共事業にも駆り出されます。これは庶民にとっては過酷な税制度だったと言えるでしょう。

そこで脱税が行われることになりました。

昔からあった「賄賂」

ここでの脱税の具体的な方法は、徴税の台帳である戸籍をごまかすことでした。

たとえば、男性なのに女性として登録したり、年齢をごまかして老人として登録したり、生きているのに死んだことにするなどして、庶民はなるべく税金がかからないようにしたのです。

また、京と畿内は税制面で優遇されていたので、諸国の農民の中には京や畿内の戸籍にもぐりこんだり、国司に賄賂を送って戸籍を京や畿内へ移してもらう者もいました。

さて、賄賂の話が出てきましたが、日本史上、記録に残る賄賂事件第一号(厳密に言えば収賄疑惑)は、ヤマト政権の総理大臣クラスの政治家によるものです。

五世紀末から六世紀半ばにかけての武烈・継体・安閑・宣化という四人の天皇の時代、大伴金村(おおとものかなむら)は大連という役職に就いていました。この大連はヤマト政権の最高執政官で、現在の総理大臣クラスにあたります。

『前賢故実』より大伴金村(Wikipediaより)

『日本書紀』には、この金村が百済からワイロを受け取ったという噂が流れたと記されています。540年には、この噂をめぐって物部氏から攻撃された金村が失脚するという事件まで起きています。その詳細を見ていきましょう。

古代の疑獄事件

五世紀後半、高句麗が朝鮮半島北部から南下して、南部の百済や新羅を圧迫し始めます。その圧力が、いずれヤマト政権が統治していた加羅におよぶことは明らかでした。

そこで継体天皇は金村の進言に従って、加羅のうちの四カ国について、百済の支配権を承認します(かつては任那四県割譲と呼ばれました)。

つまり、高句麗に領土の北部を奪われた百済を助けるため、領地を譲ったことになります。

百済の亡命者が建築に関与したとされる熊本県の鞠智城

当時の皇太子はこれに反対しましたが、金村は天皇の決断を盾に押し切りました。自ら進言して天皇に決断を迫り、今度は天皇の決断を楯に自分の主張を通したわけです。

そこで、百済のためにそれほど頑張るのは、百済から賄賂をもらったからに違いないと噂されたのです。

本当に金村が賄賂を受け取っていたかどうかは不明ですが、日本史上、賄賂をめぐる具体的な話が登場するのはこの金村の一件が最初です。賄賂事件というよりも疑獄とでも呼ぶべきものかも知れません。

脱税にしろ賄賂にしろ、昔からそういうものは存在していたんですね。

参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia

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