【光る君へ】大和源氏の祖は”殺人の上手”!?藤原道長に仕えた平安時代の武将・源頼親の生涯:その1
源頼親(みなもとのよりちか)は、平安時代中期に活躍した武将です。大河ドラマ『光る君へ』にも名前だけ登場しています。
頼親の名前が登場するのは、僧兵が訴えを起こすシーンでした。しかし具体的な紹介はありませんでしたよね。
彼は清和源氏の流れを汲む人物です。頼親は大和源氏の祖として名を残していますが、その生涯には、父・源満仲や母方の祖父である藤原致忠の影響が大きかったようです。
頼親の生涯について見ていきましょう。
武士団を率いた父・源満仲康保3(966)年9月13日、源頼親は源満仲の次男として生を受けました。頼親は大和源氏の祖となり、その生涯は武勇と抗争に彩られていますが、父・源満仲や母方の祖父である藤原致忠の影響も大きなものでした。
頼親の父・源満仲(みなもとの みつなか)は、多田源氏の祖として知られています。満仲は歴とした武士団の長であり、実際に歴史の転換点にも関わりを持っていました。
満仲が歴史に登場するのは、安和2(969)年に起こった安和の変のこと。
彼は左大臣・源高明が謀反の疑いをかけられたこの事件に関わり、密告者としての役割を果たしました。結果的に高明は失脚し、満仲は朝廷からその功績を評価され、政治的に強力な立場を固めようとします。
この事件をきっかけに、満仲は藤原摂関家とより深い結びつきを持つようになっていきました。
やがて満仲は摂津国に拠点を置いて武士団を強化。やがて彼は、鎮守府将軍や摂津守などの官職を歴任し、特に摂津国多田(現在の兵庫県川西市)を拠点に大きな勢力を築いていきます。満仲の築いたこの勢力は、頼親が武士として立つための土台となりました。
頼親はこのような強力な武士団を背景に育ち、その才能を開花させていきました。兄の頼光は摂津源氏を継ぎ、頼親自身は大和国を拠点とすることになりますが、どちらも父・満仲の影響があってこその成功でした。
藤原南家に連なる母方の祖父・藤原致忠頼親の生母は、藤原南家の出身である藤原致忠(ふじわらのむねただ)の娘とされています。
藤原氏の嫡流は、北家出身の兼家らでした。
とはいえ、南家の致忠は従四位下・右京大夫を務め、村上天皇から一条天皇まで仕え、朝廷に一定の影響力を持っていた人物です。
彼の家系は政治的に大きな力を持つことはありませんでしたが、頼親にとって、藤原家の血筋が政治的な支えとなったのは間違いありません。
しかし高貴な血筋とは裏腹に、致忠自身は、波乱に満ちた晩年を過ごしました。永延2(988)年、息子・保輔が盗賊行為に関与。致忠も共に検非違使によって拘禁されるという事件が起こります。
貴族から盗賊への”完全なる闇落ち”!悪へと染まった平安貴族「藤原保輔」の悪行の数々これによって、致忠は佐渡国へ流罪となり、政治的に没落することになります。頼親の母がこのような状況を目の当たりにしていたことは、彼の人生にも少なからぬ影響を与えたでしょう。
このように、頼親は父方・母方ともに波乱万丈な家庭環境の中で育ちました。父・満仲の築いた強固な武士団と、母方の藤原家とのつながりが、頼親の武士としての人生を形作っていくことになります。
盗賊袴垂(右)と藤原致忠の子・藤原保昌(左)。袴垂のモデルは藤原保輔とされる。
盗賊追捕と「武勇人」としての台頭頼親は若い時には検非違使として出仕。左兵衛尉や左衞門尉として盗賊退治に関わっていきました。
正暦3(994)年、頼親の叔父の満政や弟の頼信、平維将らと共に、京やその周辺で盗賊の追捕を行った記録が残っています。この時期の頼親は、すでに「武勇人」としてその名を知られ注目されるようになりました。
盗賊退治を皮切りに、頼親は出世街道を歩んでいきます。
やがて頼親は淡路(島)守を拝命。受領国司として現地に赴任して統治にあたりました。これは現代でいえば県知事クラスになると考えられます。
その後も信濃守(長野県知事)や周防守(山口県知事)などを歴任。政治的な地盤を築いていきました。
転機となったのは、大和守(奈良県知事)への就任です。当時の大和国は、仏教勢力が強い地域でした。
知恩院を警護する検非違使。平安時代の武官として代表的な存在だった。
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