伊能忠敬だけじゃない!「日本地図」作成に尽力し”日本の形”を浮き彫りにした4人の偉大なる男たち

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伊能忠敬だけじゃない!「日本地図」作成に尽力し”日本の形”を浮き彫りにした4人の偉大なる男たち

地球の表面の一部、あるいは全部を記号化し平面状に表現する「地図」。日本地図の歴史は古く、その概念は平安時代に遡る。しかし当時の資料は現存せず作者も不明。実態が確認できる地図の誕生はもう少しあとの時代のことだ。

では、日本の地図文化はどのように発展してきたのだろうか。今回は日本地図完成までの道筋を4人の人物を中心にご紹介したい。

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奈良時代の僧「行基」

僧侶の最高官位である大僧正として、東大寺の大仏建立に尽力した僧、行基(ぎょうき)

行基菩薩坐像(唐招提寺蔵・重要文化財) Wikipediaより

彼が作成したと伝わる古式の日本地図が「行基図」だ。

行基図(「拾芥抄』」写本。明暦2年)

以後の地図作成における地盤となった資料と考えられているが、原本は現存せず江戸時代の書写が残るのみ。内容も行基が生存していた時代とは矛盾する点が多いことから、行基の作成を疑問視する声もある。

江戸の浮世絵師「石川流宣」

江戸期に入ると、地図の作画も手掛けていた石川流宣(いしかわとものぶ)が、1687(貞享4)年に「本朝図鑑綱目」、1691(元禄4)年に「日本海山潮陸図」を刊行。これらは「流宣図(りゅうせんず)」と呼ばれ、庶民の間で流行した。

流宣図は日本列島を型どる図形こそ崩れていたが、詳細な記載により約1世紀に渡って刊行され続けたといわれている。

江戸中期の地理学者「長久保赤水」

水戸藩の農家の生まれである長久保赤水は、1774(安永3)年に「日本輿地路程全図」、1779(安永8)年に修正版となる「改正日本輿地路程全図」を刊行。初めて経緯線(地球の緯度を示す緯線および経度を示す経線)を用いて製図された地図であり、それまでに主流であった流宣図と入れ替わる形で日本地図の新たな基準となった。

長久保赤水の通称「赤水図」は、地理的な正確さに加え国名を含めた地名の記載も豊富であり、山や川などの名称も多かったといわれている。赤水は全国諸国の資料や書物の記述、現地の人間から情報を得ることによって地図を完成させたようだ。

wikipediaより「大日本沿海輿地全図214枚の全景 (レプリカ)」。

江戸の天文学者「伊能忠敬」

千葉県出身の伊能忠敬は、隠居後に天文学者の高橋至時に弟子入りし天文学の知識を得た元商人である。寛政12年(1800年)に測量を開始。17年間かけて全国の測量を行った。文政元年(1818年)に死去。

忠敬が亡くなった時点で地図は完成していなかったが、弟子たちが作成を受け継ぎ、文政4年(1821年)に「大日本沿海輿地全図」として公表された。日本で測量技術を用いて作成された初めての地図である。

通称「伊能図」と呼ばれるこの地図は、経度方向の精度に難があるものの当時の日本地図としては抜群の完成度を誇った。

地形図の浸透

忠敬の地図は幕府に秘図とされ一般に公開されることはなかった。しかし、明治期に入り測量による近代地形図の作成が一般化すると、1800年代の後期には誰でも地形図を手に入れることが可能となる。

明治政府の元、測量部として機能した組織は現在の国土地理院に繋がってゆく。

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