男専門に体を売る若き美少年……江戸時代の男娼「陰間」は出身地により「格」が違った【後編】

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男専門に体を売る若き美少年……江戸時代の男娼「陰間」は出身地により「格」が違った【後編】

10歳〜17歳くらいの美少年が、大人の男に体を売る場所として大盛況となった「陰間茶屋」

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男専門に体を売る若き美少年……江戸時代の男娼「陰間」は出身地により「格」が違った【前編】

陰間とよばれた美少年たちは、京都や大阪から連れてこられた少年のほうが柔らかい上方言葉や物腰の柔らかさが「上品で高級だ」と評判で、江戸っ子の少年よりも「格上」だったそうです。

彼らは、顧客の心を繋ぎ止めるために、芸事の腕・顧客の性癖を満足させる性技の腕を磨き、自らの「美」を磨くことにも余念がなかったそうです。

 足袋を穿くのは陰間(歌川豊国)

べらぼうに高かった陰間のお値段

 陰間と寝ていたところにもう一人が登場「三侍」(宮川長春)wiki

陰間の値段は、非常に高価だったのですが、それは陰間の盛り(実働期間)が短かかったからといわれています。

肌に水々しさがあり、髭が生えたり声が太くなったりなど「男らしい変化」が出ない前の、ジェンダーレスな美少年が好まれたために、16〜17歳までが限界とされ、20歳になると客がつかなくなるために、皆転職していったそうです。

自身が男色家だったという平賀源内による、当時の陰間茶屋ガイドブック&男色の手ほどき的な書籍『江戸男色細見-菊の園-』『男色評判記-男色品定-』によると、

▪︎一刻(2時間)で1分(4分の1両)
▪︎一日買い切りで3両
▪︎外に連れ出すときは1両3分~2両

ほどかかったそうです。江戸中期における1両は現在の5~10万円相当だそうなので、若々しい美少年を1日貸し切ると15万円〜30万円……とても、庶民が払える金額ではありません。

陰間買いをする客は、金持ちの武家・商人・僧侶が主だったようで、女性の場合は御殿女中や富裕な商家の後家が多かったそうです。

小姓吉三(歌川国貞)

陰間は、誕生した当初は戦国大名に仕える「小姓」のような衣装でしたが、次第に島田髷(しまだまげ)に大振袖という華やかな女性風の衣装へと変化してきます。

当人たちも、女性のような仕草や振る舞いを好んでしていたとか。

時代の流れで売春に対する禁令が厳しくなってくると若衆風、となっていきました。

役者同士の男色スキャンダルも

お客と陰間の男色だけではなく役者同士の男色も流行っていました。

特に話題となったのが、当時の人気役者の三代目・坂東三津五郎と、女形の五代目・瀬川菊之丞の関係。

男色の噂だけではなく、菊之丞が三津五郎の妻に手を出したなどといろいろなスキャンダルが取り沙汰されたようです。

両者とも同じ時期に病死をしたために、「死絵」(人気役者が死亡すると訃報と追悼のために描かれるもの)も、三津五郎と菊之丞が二人セットで描かれました。

三代目板東三津五郎、五代目瀬川菊之丞の死絵(歌川国貞)

「陰間茶屋」遊びが大盛況だった当時、江戸にある全陰間茶屋には225人ほどの陰間がいたそうです。

当時、男色は特別なものではなく色の道を追求する趣味人としては「男も女も性を味わう」というような考えがあったそうで、文化人などもごく普通に陰間買いをしていました。

若く幼くまだ男になりきっていないジェンダーレスなところが好まれていた陰間。

引退後は、小間物問屋などの奉公人として働き普通の町民になる人もいれば、そのまま女性客相手に売春をする「年増陰間」と呼ばれる男娼になる人もいたそうです。

女と若衆(菱川師宣)

元禄(1688-1704)年間ごろに成立した、陰間が男性客に体を売る「陰間茶屋」遊びですが、江戸時代の天保年間(1841年 – 1843年)に行われた「天保の改革」により風俗に対する取り締まりが厳しくなり、天保13年(1842年)に陰間茶屋は禁止に。

長い男色風俗の歴史に幕を閉じたのでした。

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