なんと90歳を超えて合戦へ! 戦国時代のご長寿武将「龍造寺家兼」のお家再興ドラマ【前編】
戦乱の時代に武士として生きた者に長寿者は少ない。長生きとされている人物は存在するものの、生年月日に一定の信憑性がある例は稀だろう。かつて九州北部を中心に活動した武士「龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)」は、戦国の世にあって93年の生涯をまっとうした。
90歳を超えてもなお挙兵したとされる家兼。今回はその生涯をご紹介する。
龍造寺氏龍造寺氏は平安中期の貴族、藤原氏の流れをくむ一族とされている。始祖とされる「高木南次郎季家(すえいえ)」という人物は、1185年頃に肥前国(現在の佐賀県から長崎県地域)小津東郷内龍造寺村一帯を統治する要職を獲得、同地の地名から「龍造寺」を名乗った。
肥前国(Wikipediaより)肥前国の国人となった龍造寺氏は、桓武平氏の末裔であった千葉氏に長く仕えた。1274年と81年のモンゴル帝国襲来(元寇)の際にも壱岐や博多で戦ったとされる。
室町時代後期になると千葉氏に代わり肥前守護として「少弐氏(しょうに)」が北九州に勢力を拡大。龍造寺氏は守護大名に従属する国人としてこれに仕えた。
龍造寺家兼の誕生と台頭龍造寺氏中興の主とされる「龍造寺家兼」は、1454年、肥前国の国人である龍造寺氏13代当主「龍造寺康家」の五男として生まれた。
当時の龍造寺氏は宗家である「村中龍造寺」と庶家である「水ヶ江龍造寺(みずがえ)」の二家に別れていた。水ヶ江龍造寺家は、家兼の父である康家が隠居の地として水ヶ江に居を構えたことが始まりとされる。
家兼は水ヶ江龍造寺家二代目を継いだが、宗家である村中龍造寺家は内紛や当主の早逝で徐々に弱体化し、一門における家兼の存在感は増していったという。家兼は器量が大きく賢い人物であったらしく、弱体化した宗家を補佐する形で家内の実権を掌握した。
そして龍造寺家の主家である少弐氏の筆頭家臣の地位にまで上り詰めることとなる。この後、長老となった家兼の名を諸大名に轟かせたきっかけとなる戦が起こる。
田手畷(たでなわて)の戦い当時の北九州は、「周防国(すおう)」を制する「大内氏」と「肥前国(ひぜん)」の「少弐氏(しょうに)」が覇権をめぐって対立していた。少弐氏は1497年に起こった大内氏との戦いに敗れ、領地を大幅に失った上に当主「少弐 政資(しょうに まさすけ)」が自刃に追い込まれたという過去があったため、大内氏との間には因縁が存在した。
1530年。大内氏16代目当主である「大内 義隆(おおうち よしたか)」は、政資の息子であり少弐氏16代目当主である「少弐資元(しょうにすけもと)」を討つべく行動を開始。筑前国守護代「杉興運(すぎおきかず)」に大内方の諸将を集めさせ、資元の肥前国を攻めた。
大内氏15代目当主「大内義興(よしおき)」。少弐氏15代目当主「少弐政資」を自刃に追いやった。(Wikipediaより)戦力は大内氏方が圧倒的に有利であり、裏切る諸将も出たことで本拠地である肥前神崎郡深くまで攻め込まれた少弐氏。龍造寺家兼を中心に奮戦するが徐々に敗戦の気配が漂い始める。
次回の【後編】に続きます。
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