平安時代の酒乱の姫君…酔っ払って”神憑り”となった嫥子女王とはどんな女性だったのか?

よく「あれは酔っ払っての発言だから……」などと言われる通り、酔っ払って正常な判断力が失われると、何を口走るか分かりません。
だから大抵は見逃される(しかし怨みは残る)ものの、時として酔っ払いの発言が他人の人生を大きく狂わせてしまうこともあります。
今回は平安時代を生きた伊勢の斎宮・嫥子女王(せんし/よしこ、あつこ※)を紹介。果たして彼女は、何をやらかしたのでしょうか。
※当時の女性名は読み仮名が伝わっていないことが多いため、読み方には諸説あります。
斎宮として14歳で伊勢へ嫥子女王は寛弘2年(1005年)、具平親王(ともひら。村上天皇皇子)の三女として誕生しました。
母親は為平親王女(ためひら娘。村上天皇孫)、姉に隆姫女王(たかひめ。藤原頼通室)と敦康親王妃(実名不詳)、弟に源師房(もろふさ)がいます。
12歳となった長和5年(1016年)、敦成親王(あつひら。後一条天皇)が即位すると斎宮(さいくう/いつきのみや)に卜定されました。
斎宮とは伊勢の神宮(いわゆる伊勢神宮)に奉仕する女性で、天皇陛下一代につき一人の皇女が選ばれます。
寛仁2年(1018年)に伊勢へ群行し、万寿2年(1025年)に21歳で裳着(もぎ。女性の成人儀式)を行いました。
おおむね真面目に勤めを果たしたようですが、どうやら酒乱の気があったようで、長元4年(1031年)に事件を惹き起こします。
しこたま酔って神憑りに長元4年(1031年)6月17日に月次祭(つきなみさい)を執り行っている最中、嫥子女王はにわかに神憑りとなりました。
「キエーッ!」
いったい何事かと周囲の者らが驚くと、嫥子女王は続けます。
曰く、我こそは伊勢の大神の荒魂(あらみたま。荒ぶる神格)であると。
続けて斎宮権頭(さいくうごんのかみ)の藤原相通(すけみち)とその妻である藤原小忌古曾(おきこそ)が不正を行っていることを訴えるために降臨した、と言います。
加えて斎宮を軽視・冷遇していることは今上陛下(後一条天皇)の失政である、と朝廷の態度を非難しました。
『後拾遺和歌集』によれば嫥子女王は酒をしこたま飲んでいたそうで、酔った勢いによって日頃の不満が噴き出したのでしょうか。
神の言葉を伝え終えた嫥子女王は、傍らにいた神宮祭主の大中臣輔親(おおなかとみの すけちか)へ、こんな和歌を詠みました。
さかづきに さやけき影の みえぬれば
ちりのおそりは あらじとをしれ
【意訳】盃にはっきりと月が映っているように、たとえ塵ほどの罪も神はお見逃しにならないことを知れ!
藤原相通・藤原小忌古曾夫妻の不正を間違いなく伝えよ、との強い意志を感じます。
これに対して大中臣輔親が詠んだ返歌がこちら。
おほぢちゝ むまごすけちか みよまでに
いたゞきまつる すべらおほんがみ
【意訳】祖父の大中臣頼基(よりもと)、父の大中臣能宣(よしのぶ)そして孫のわたくし大中臣輔親は、三代にわたり皇祖神(すめらみおやがみ。天照大御神)にお仕えして参りました。そのお言葉を、お伝えしないはずがございません。
という訳で、嫥子女王がもたらした託宣は、朝廷に届けられます。
斎宮が神の言葉を伝えるなど、前代未聞。事の重大さを感じた当局は、ただちに藤原相通・藤原小忌古曾夫妻を流罪としたのでした。
果たして彼らはどんな不正を働いたのか、そもそも朝廷の斎宮軽視とはどんな状態だったのか、そしてそれは改善されたのか、興味深いところです。
京都に戻り、藤原教通と結婚
その後、長元9年(1036年)に後一条天皇が崩御されると、嫥子女王は斎宮の座を退下しました。
京都へ戻った嫥子女王は永承6年(1051年)に藤原教通(のりみち。道長五男)と結婚。その継々室(三番目の正室)となります。
既に47歳となっていた嫥子女王。当時としては老齢に達しており、子供は出来ませんでした。
しかし夫婦生活は20年以上におよび、承保2年(1075年)9月25日に先立たれます。
そして永保元年(1081年)6月16日、嫥子女王は77歳で薨去したのでした。
終わりに今回は伊勢の斎宮で藤原教通の妻となった嫥子女王について、その生涯をたどってきました。
藤原相通夫妻の不正とは何だったのか、そして朝廷は斎宮を重視するようになったのかが気になります。
他にも伊勢の斎宮はたくさんいるので、改めて面白いエピソードを紹介できたら嬉しいです。
※参考文献:
中野イツ『斎王物語』明和町教育委員会、1996年日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan