【逃げ上手の若君】武将・北条時行の最大の庇護者にして諏訪氏の当主・諏訪頼重の人生と真の姿:前編
マンガ『逃げ上手の若君』は、北条時行を主人公とする南北朝時代を扱った物語です。物語でも史実でもそうですが、時行を守り育てたのが諏訪頼重(すわよりしげ)でした。
頼重は物語中では未来を見通す力を持つとされていました。
実際、頼重の生まれた諏訪氏は、諏訪大社の大祝(おおほうり)を大々務める家で、人々から篤い信仰を集めていました。
ここでは頼重の人生と、真の姿について追っていきます。
『逃げ若』をご存知の方はより詳しく、知らない方は少し南北朝時代に興味がモテる内容です。
一つの項目が数分ほどで読める内容にまとめました。お好きなところから読み進めて下さい。
それでは諏訪頼重の人生について、一緒に見ていきましょう。
信濃を代表する名家・諏訪一族に生まれる
諏訪頼重は、鎌倉時代末期の信濃国(現在の長野県)諏訪地方に、諏訪盛重(または諏訪宗経)の子として生まれました。別名は盛高とも伝わっています。
頼重の生まれた諏訪氏は、諏訪明神の直系の末裔を名乗る一族です。実際は金刺氏の
彼らは代々信濃国の一宮(国で最も社格が高い神社)である諏訪大社の大祝という神職を世襲していました。
一方で諏訪氏は鎌倉時代から北条氏に接近。御内人(みうちびと)として、執権北条氏の得宗家に仕える身分となります。
その甲斐あってから、諏訪氏は鎌倉幕府の政権下で信濃国守護職を継承。同国を代表する武士団の長として存在感を高めていました。
諏訪氏は神職としても武士としても、信濃をまとめる立場として周囲から認められていたことわかります。
諏訪一族と鎌倉幕府諏訪氏と北条氏の強固な関係は、やがて暗雲をもたらすこととなります。
元弘元(1331)年、後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕計画を企図。楠木正成や赤松則村らが加わり、反幕府の戦が拡大していきます。
元弘3(1333)年4月、鎌倉幕府は有力な御家人である足利高氏(尊氏)を鎮圧に差し向けました。
しかし高氏は5月7日、鎌倉幕府を見限って後醍醐天皇に同心。京の六波羅探題を攻め落としてしまいます。
翌8日、関東の上野国で御家人・新田義貞が150騎で挙兵。御家人の支持を受けた義貞の軍勢は大軍に膨れ上がります。
義貞はそのまま鎌倉に侵攻。幕府軍は方々で敗れ、18日には鎌倉が攻められることとなりました。
ほとんど同時に東西で鎌倉幕府倒幕の兵が起こった裏には、綿密な計画か御家人たちの不満があったと考えるべきでしょう。
5月22日には、執権・北条高時らが一族とともに東勝寺で自刃。鎌倉幕府と北条氏はここに滅び去りました。
ではこのとき、諏訪氏や頼重はどうしていたのでしょうか。
東勝寺では諏訪氏の一門である諏訪時光も自害。諏訪盛高(頼重のことと思われる)は高時の遺児・時行を保護して、鎌倉から脱出しています。
マンガ『逃げ上手の若君』では、頼重が時行を諏訪に連れ帰って匿った描写がされていました。
史実でも同様、諏訪氏は北条氏への恩義を忘れず、最後まで尽くそうとしていたことがわかります。
次回【中編】に続きます。
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