尼将軍・北条政子の有名な暴力行為「夫の浮気相手の家を”破壊”」実は当時の風習だった!?

浮気をしていた頼朝
尼将軍と呼ばれ、烈女としてのイメージが強い北条政子。しかし、夫である源頼朝とは実は熱烈な恋愛の末に結婚したといわれています。当時としては恋愛結婚は珍しく、ふたりの愛の深さがうかがえる話でもありますね。

さて、夫の頼朝は恐妻家のようでいて、実は「亀前」という側室をおいていました。二人は、頼朝が伊豆にいた頃からの関係で、頼朝は妻の政子が妊娠している最中、亀前を鎌倉に呼び寄せています。そして、亀前を今の鎌倉市の材木座にあった伏見広綱の屋敷に住まわせて通っていました。
そのような頼朝の浮気を政子に知らせたのは、北条時政の後妻である牧の方でした。
その話を聞いた政子は激怒し、牧の方の兄である牧宗親に命じ、亀前がいた伏見広綱の家を破壊させています。さらに、広綱を近江へ流罪にしてしまいました。
この破壊行為は、近世以降の常識からみると、かなりの暴力行為だと言えるでしょう。もちろん、夫の浮気に激怒する政子の感覚の方が現代の私たちに近いわけですが、それにしても家の破壊は明らかな犯罪です。
よって、このエピソードは、政子の気の強さと嫉妬深さを物語る一件として語り継がれてきました。しかし……
「後妻を襲う」ことは認められていたじつは中世初期の当時にあっては、こうした破壊行為はそう珍しくないことだったのです。当時は、「後妻(うわなり)打ち」と呼ばれる風習があったのです。
当時は夫と離縁した妻とその一族には、その夫が新たな妻を迎えたとき、後妻の家を襲って、家を傷つけたり、家財道具を壊すことが認められていました。政子が指示した襲撃もその「ルール」に従ったものといえるでしょう。
とはいえ、ほかにも夫の女性関係に関する北条政子の「強さ」を示すエピソードはいくつかあります。例えば、大進局という女性については、頼朝との間に生まれた子の出産に伴う儀式をすべて省略し、5年後に鎌倉から追放しました。

また祥寿姫という女性については、頼朝が妻として迎えようとしたところ、祥寿姫の父である新田義重が、なんと政子の怒りを恐れて他家に嫁がせています。
また、丹後局については頼朝の子を身籠っていることを知った政子が激怒し、追放されてしまいました。
こうして見ていくと、北条政子の恐妻っぷりはなかなかのものですが、頼朝も「懲りない」人ではありますね。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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