血で血を洗う戦乱の世に「信仰」で抗った男!戦国武将・高山右近の波乱の生涯とその最期
洗礼から臨死体験まで
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての代表的なキリシタン大名に、高山右近(たかやまうこん)がいます。
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地位も名誉も捨てた壮絶な生涯…キリシタン大名・ユスト高山右近ってどんな人物だったの? 洗礼名は「ドン・シメオン」。キリシタン大名・黒田官兵衛の知られざる一面に迫るキリシタン大名と呼ばれた人物は大勢いますが、その中でも家や領地を投げ打ってまで信仰を貫いた大名は、唯一彼だけです。その強靭な信仰心と影響力から伴天連の大旦那という二つ名まで持っていました。
「太平記英勇伝九十二:高山右近友祥」(Wikipediaより)
彼がイエズス会へ入会して「ジュスト」という洗礼名で洗礼を受けたのは1564年(永禄七)、12歳のときのことでした。
彼が早くからキリスト教に目覚めたのは、父親がキリスト教の教えに感銘を受け、すでに洗礼を受けていたからです。
右近の人生の重要な転換点となったのは、高槻城で和田惟長に仕えた時です。和田は、高山親子の人望を危険視して暗殺計画を立てていました。
右近は、和田から暗殺される危険を感じ取り、荒木村重の助言を受けて反対に和田を襲撃。こうして奪い取った高槻城が、高山家の居城となりました。
さらにこの襲撃時、右近も乱戦の中で大けがを負っています。首を半分切断されるほど深い傷だったという話もあり、彼は、約二か月間生死の境をさまよいました。
そして奇跡的に回復を遂げるまでの間の臨死体験が、彼にさらに深い信仰心を植え付けたと言われています。それ以降、右近はさらに精力的に領内でのキリスト教の布教に励むようになりました。
全てを投げ打って信仰を選ぶその後は荒木村重、織田信長、羽柴秀吉に仕えます。明智光秀を討った山崎の戦いや小牧・長久手の戦い、秀吉の四国攻めにも参戦しました。
高山右近は人徳ある人として知られ、蒲生氏郷や黒田孝高(如水)などの多くの大名が、彼の影響でキリシタンとなっています。
また前田利家も、洗礼こそ受けなかったものの右近の影響でキリシタンに対して好意的でした。
ところが、秀吉が1587年(天正15)にバテレン追放令を出すと、秀吉の側近だった黒田孝高はすぐに棄教しましたが、右近は信仰を守ることを決意します。彼は信仰と引き換えに領地と財産を捨て、世間を驚かせました。
さらに1614年(慶長19)には、徳川家康によって宣教師とともに国外追放を命じられる事態に。これは大坂城攻撃を前に、キリシタンが豊臣側につくことを防ぐための家康の計略でした。
マニラで賓客として迎えられる右近は、妻のジュリアたち100人余りとともに、同年10月に長崎からマニラへ向けて出帆します。
そして43日後にマニラに到着。右近は、すでにイエズス会からの報告によって当地でも有名になっていたため、スペイン人のフィリピン総督や市民たちから礼砲で迎えられて賓客として遇されました。
しかし、長い航海と南国の酷暑で急速に衰弱。上陸から一か月ほどで熱病におかされ、翌年2月4日に64歳で亡くなりました。
葬儀は、総督の指示によって、イエズス会管区長の葬られるサンタ・アンナ聖堂でマニラ全市をあげて営まれました。
マニラのプラザデラオの公園内にある右近来比の経緯が記された碑(Wikipediaより)
彼は、血で血を洗う戦乱の時代の中にあって、あくまでも自らの信仰を貫き通したのです。
右近の死後、家族は日本へ帰国。現在、石川県志賀町と大分市に直系子孫の二つの「高山家」が存在しています。
また、右近没後400年にあたる2015年(平成27)には、日本のカトリック中央協議会が右近のことを「地位を捨てて信仰を貫いた殉教者」として福者に認定するようローマ教皇庁に申請。翌年には教皇によって認可されました。
参考資料:刀剣ワールド
画像:photoAC,Wikipedia
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