南北朝時代、そもそも後醍醐天皇はなぜ「吉野」の地を根拠地としたのか?その3つの理由 (2/3ページ)
このようにして、京都の北朝と吉野の南朝という二つの朝廷が並び立つ南北朝時代が始まったわけです。
ではそもそも、なぜ後醍醐天皇はここで「吉野」を根拠地としたのでしょうか。これにきちんと答えられる人は実は多くはいないでしょう。
吉野は防御・補給に適していた後醍醐天皇が新たな根拠地として吉野を選んだのは、おもに三つの理由があったと考えられています。
一つは、吉野が山岳地帯であり、地形的に攻められにくいことです。
吉野の南方には紀伊山地があり、南側の防衛を考慮する必要がなかったことに加え、西方は楠木一族が本拠とする河内・和泉に近いという位置関係にありました。
また、東は伊賀を通じて北畠親房のいる伊勢へ通じており、防御を固めやすかったのです。
二つめは、山岳地帯でありながら河内・和泉や伊勢へ通じているため、吉野を根拠地とすることで補給ルートを確保できることが挙げられるでしょう。
特に伊勢大湊から東海・品川方面への海路が開けていましたし、紀ノ川を下って和歌山へ出ると、瀬戸内海交通の要衝である堺にもつながっていました。