狂人?人格破綻?度重なる狂気的乱行の末に自刃した徳川2代将軍・秀忠の息子「徳川忠長」の生涯【前編】
神君家康の孫、徳川2代将軍秀忠の息子として一時は将軍後継の最有力とまで目された「徳川忠長」。生まれながらに一流の血筋と絶大な権力を合わせ持ちながら、28年という短い生涯は自刃という形で幕を閉じた。忠長には生前多くの逸話が残っている。
徳川忠長像(Wikipediaより)今回は「駿河大納言・徳川忠長」の生涯をご紹介する。
※関連記事:
二代将軍・徳川秀忠には息子が二人、どちらが将軍に相応しいか家康が課した試験とは? 出生と将軍後継争い忠長は1606年、江戸城西の丸に生まれる。幼名は「国千代」。母親は2代将軍秀忠の正室「江(ごう)」。秀忠と江の間には2年前に嫡男である「家光」が生まれていたが、家光は生来病弱であり吃音が認められたため、秀忠と江は弟の忠長を寵愛していたといわれている。
※関連記事:
将軍・徳川家光の女装癖は本当だったのか?女装シーンが出てくる「若気の至り」の逸話とは幼少期の忠長は聡明で容姿端麗だったとされ、両親は将軍の後継にと意識していた可能性も否定できない。江が弟の忠長を溺愛した理由には、家光の乳母であった「春日局(かすがのつぼね)」との軋轢にあったと考えられている。2人の対立関係がそのまま家光と忠長の将軍後継争いに発展したという説もある。
将軍後継争いを巡っては、春日局が駿河にいる家康の元へ家光の将軍後継の承諾を得に赴いたという逸話が残っているが、それを裏付ける証拠はなく創作の域を出ない。
ただし、後継を決定する過程において何らかの形で家康の意向が働いた可能性は高いとされている。
忠長の父、徳川2代将軍徳川秀忠(Wikipediaより) 甲府藩主へ将軍の後継争いは家光が指名される形で決着した。1616年、忠長は甲府23万8000石を拝領し甲府藩主となる。忠長は一大名に列し、正式に将軍後継となった家光との立場の差は明確になった。
この時期の忠長について新井白石は自著である「藩翰譜(はんかんふ)」に以下のような記載を残している。
”1618年、12歳の折、忠長は自身が撃ち取った鴨で作られた汁物を父・秀忠に振舞った。秀忠は喜んだが、鴨が家光の居住地である西の丸の堀で捕らえられたものだと知った秀忠は、時期将軍である家光の居住区に鉄砲を撃ち込んだ忠長の行為に激怒した“
上述の記載は忠長が父・秀忠からの信頼を欠いた幼少期のエピソードとして取り上げられることが多いが、藩翰譜の成立は1702年であり、80年以上も後世に書かれた書物の信憑性には議論の余地が残る。
元服から「駿河大納言」へ1620年元服。正式に「忠長」と名乗った。同年、織田信長の孫である織田信良の娘「昌子」と婚姻。昌子は当時わずか齢10であった。
1624年には甲斐に加え駿河・遠江を加増され55万石の領主となり、周囲の大名からは「駿河大納言」の名で形容されるようになる。
この頃の忠長には、知行に不服で、すでに大御所となっていた父・秀忠に「100万石」か「大阪城」を要求して呆れさせたという逸話が残っている。
しかし1626年に「権大納言」となってからは、後水尾天皇の二条行幸の上洛に随行し、父・秀忠の落胤(隠し子)で異母弟だった「保科正之」と面会、家康ゆかりの遺品を譲ったりと、政務に邁進している様子がうかがえる。
忠長の兄、徳川3代将軍徳川家光(Wikipediaより) 母の死と家光との確執1626年、母である江が亡くなると、立場をわきまえない無自覚な行動が目立つようになったといわれている。
同年には父・秀忠と兄・家光の上洛に伴って、現在の静岡県を流れる大井川に幕府に無許可で橋を渡す。独断での施工に加え、大井川は江戸と駿府の防衛の役目を果たす要所であり、架橋はおろか渡し船も禁止されていたため家光の不興をかった。
次回【後編】に続きます。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan