室町幕府のダメっぷり…貨幣経済への転換期・室町時代に一揆で標的にされたのは「酒屋」?
物々交換から貨幣経済へ
室町時代というのは、日本の経済史上でも重要な転換点となる時期で、京の都を中心に貨幣経済が浸透した時代でもありました。それまでは物々交換だった人々の市場でのやり取りが「お金」中心へと変わっていったのです。
と言っても、この頃は室町幕府に信用がなかったため国内での自前での貨幣は造られませんでした。取引で使われていたのは中国(当時の宋)の硬貨だったり、ひどい場合は贋金までもが大手を振って流通していたのです。
なぜか”中国の貨幣”が流通していた室町時代…幕府はなぜ自前の貨幣を造らなかったのか?ともあれ、貨幣経済が浸透し始めた時代だったのは本当のことで、人々はお金を使って物を買うようになっていきました。
すると、当然ながら富める者も現れますし、貧する者も出てきます。借金をかかえた庶民が、借金棒引きを求めて一揆を起こすことも増えてきました。
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「一揆(いっき)」とは何か?平安時代から江戸時代・近代まで様々な種類があった一揆の歴史をたどる室町幕府が発する借金棒引き令を「徳政令」と言ったことから、そうした一揆は「徳政一揆」と呼ばれていました。そこで標的とされたのはおもに高利貸業です。
当時の高利貸業は、質物を保管する土蔵造りの倉を構えていたことから、「土倉(どそう)」と呼ばれていました。
幕府も打つ手なしまた、酒造業者には高利貸しを行う者が多くいました。
そのため、こうした土倉と酒屋が一揆の標的にされることが少なくありませんでした。
室町幕府は、こうして頻発する徳政一揆を抑えることができず、仕方なくなし崩し的に徳政令を出すこともあったようです。
しかし、民からの信用もなく、財政基盤も弱かった室町幕府にとって、土倉と酒屋からの税収は貴重な収入源であり、むやみに徳政令を頻発することはできませんでした。
室町時代といえばきらびやかな金閣寺。しかし経済はめちゃめちゃだった
また土倉や酒屋は、金を貸すさい、借用書に徳政令不適用の文言を入れるのが常でした。
つまり、徳政令が出されてもそれは無効であり、借りたお金はきちんと返さなければいけないというルールになっていたのです。
現代の法律なら、お金を借りた人が不利になるようなルールが最初から契約書に書き込まれていると、そのルールは無効とみなされます。よって今ではあり得ない話なのですが、当時はそれがまかりとおっていたわけです。
こうしたところにも、室町幕府のダメっぷりが表れています。自前の貨幣を発行することもできなかった室町幕府は、貨幣経済の進展に有効な対策を打つことができず、人々の暮らしも混乱するばかりだったのです。
画像:photoAC,Wikipedia
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