江戸時代「将軍」を一度も輩出できず辛酸を舐め続けたエリート一族「尾張徳川家」の運命【前編】

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江戸時代「将軍」を一度も輩出できず辛酸を舐め続けたエリート一族「尾張徳川家」の運命【前編】

およそ270年間続いた江戸時代。その間日本を統治した徳川将軍家からは、15人の将軍が誕生した。時の将軍は絶大な権力と名声を獲得し、国民の象徴として日本の頂点に君臨した。しかし、将軍職の決定には様々な利権や思惑が複雑に絡み合い、時には死者も出たという。

今回は、名門徳川家にあって筆頭家格と目されながらも、自家からの将軍輩出が叶わなかった「尾張徳川家」の歴史をご紹介したい。

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「尾張徳川家」とは

徳川幕府の創設者であり、徳川初代将軍である「徳川家康」には11人の息子がいた。家康は自分の実子からなる直系宗家の血筋が途絶えた時のことを考慮し、自身の実子たちを始祖とする分家から養子を迎えることで徳川家の血筋を保つことを決定した。

事実、徳川4代将軍「徳川家綱」には子がなく、家康の直系子孫は77年で途絶えている。家康は将軍家(宗家)の跡取りが途絶えた際に、将軍家に変わって将軍を輩出することができる三家を定めていた。

これを「徳川御三家」と呼び、徳川家において将軍家に次ぐ地位を有した。

御三家には家康の9男「徳川義直」を始祖とする「尾張徳川家」10男「徳川頼宣」を始祖とする「紀州徳川家」11男「徳川頼房」を始祖とする「水戸徳川家」が選ばれた。
(※水戸家は後に御三家に格上げされている)

上述の三家が選ばれた理由には諸説あるが、将軍家の心臓である江戸と駿河を守護するための地理的要所に位置していたことや、家康からの信頼度などが指摘されている。

御三家は一門の中でも最高の家格に位置付けられ、「葵」の家紋使用が許可されていた。中でも尾張徳川家は御三家の中でも筆頭家格とされ、絶大な権力を有した。

尾張藩の象徴名古屋城(Wikipediaより)

藩祖「義直」の藩訓

尾張徳川家の初代藩主徳川義直は1601年に大阪城で生まれる。学問を好んだ義直は堅物であったとされ、儒教に傾倒し尊王思想を重んじた。

義直は自身の著書である「軍書合鑑」に、”敬うべきは朝廷であり朝廷と幕府が争うことがあれば朝廷側に味方せよ“と説き、その思想は歴代藩主に語り継がれ尾張徳川家の藩訓となった。

義直の思想は、後に明治維新下における尾張徳川家のあり方に大きな影響を与えることとなる。

2度の将軍擁立失敗

家康直系の子孫は4代家綱で途絶えた。その後7代将軍の家継までは2代将軍秀忠および3代将軍家光親子の血筋を繋ぐが、家継が1716年に8歳で早世したためその血縁も途絶えてしまう。

7代将軍決定の際、尾張徳川家は最初の将軍輩出機会を得る。将軍職にあった6代将軍「徳川家宣」は尾張徳川家4代藩主の「徳川吉通」を7代将軍に推したのだ。しかし、側近の反対によって結果的に実子である家継を擁立した経緯があった。

家継亡き後、尾張徳川家6代藩主の「徳川継友」が7代将軍徳川家継の後継者候補に上がったことにより、尾張徳川家には再び将軍擁立の機会が巡ってくる。

徳川8代目将軍 徳川吉宗(Wikipediaより)

しかし、同じく御三家であった紀州徳川家の「徳川吉宗」との後継者争いに破れ、またしても自家からの将軍擁立は叶わなかった。

尾張徳川家には初代藩主義直の意向により”将軍職を争ってはならない“という暗黙の了解が存在していたとされ、藩を上げて継友の将軍位就任運動を行うことがなかったことも原因といわれている。

次回【後編】に続きます。

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