東国の中世!室町時代、関東地方にあった東国支配の為の役職と組織をわかりやすく解説
室町時代、関東地方にはいくつかの大事な役職や組織がありました。室町時代から戦国時代にかけて、東国の歴史を勉強していると、いろいろな機関や役職が出てきて混乱してしまいますよね。
※関連記事:
戦国時代の始まりは応仁の乱ではない!?「関東の三十年戦争」享徳の乱とは【前編】 関東最弱?とんでもない!鎌倉まで攻め込んで来た里見一族~大永鎌倉合戦~そこで、基本的な機関と役職を、まとめて解説してみました。
基本的に高校の日本史の教科書に出てくる項目でまとめたので、この記事をしっかり読めば、高校の日本史の授業にも困らないはず。
さぁ、それでは早速見ていきましょう~!
1. 鎌倉公方(かまくらくぼう) 誰だったの?どんなことをしていたの?鎌倉公方は、室町時代に関東地方を治めるために室町幕府から派遣された人です。最初に鎌倉公方になったのは、足利尊氏(あしかがたかうじ)の弟である足利基氏(あしかがもとうじ)でした。
室町幕府は京都にありましたが、関東地方は遠く、直接治めるのが難しかったため、尊氏は弟を関東に送って、その地域をまとめさせました。それが「鎌倉公方」です。
どんな役割だったの?鎌倉公方は、室町幕府の代表として関東地方を治め、平和を守る役割を担っていました。しかし、だんだん室町幕府と鎌倉公方の関係が悪くなり、鎌倉公方は自分たちで決めることが増え、幕府の言うことを聞かないこともありました。
その結果、室町幕府と対立することが多くなったのです。
2. 古河公方(こがくぼう) どうして出てきたの?鎌倉公方の間で争いが起きて、力が分かれてしまいました。そのとき、鎌倉から追い出された足利成氏(あしかがしげうじ)が、下総国の古河(現在の茨城県古河市)に拠点を移して作ったのが「古河公方」です。
古河公方は、鎌倉公方が分裂した後に生まれた新しい勢力です。
どんなことをしていたの?古河公方は、鎌倉公方と同じように関東地方を治めようとしましたが、室町幕府や他の勢力との争いが続きました。そのため、古河公方の力は次第に弱くなっていきました。
足利成氏はさまざまな武士と協力して頑張りましたが、戦いが多く、結果的にその力は減ってしまったのです。
3. 関東管領(かんとうかんれい) どんな役職?関東管領は、鎌倉公方を助けるために室町幕府が設けた役職です。主に上杉氏(うえすぎし)という家の人たちが関東管領を務めていました。関東管領は、鎌倉公方をサポートしながら、関東地方の平和を守るために働いていました。
どんなことがあったの?関東管領と鎌倉公方は、一緒に協力して関東を治めることもあれば、対立することもありました。関東管領は、ただの助け役ではなく、自分たちで判断して行動することもありました。
ときには鎌倉公方とうまくいかなくなり、関東管領が自分で関東をまとめようとすることもあったのです。そのため、関東管領と鎌倉公方の関係はとても複雑で、一筋縄ではいかないものでした。
4. 鎌倉府(かまくらふ) 何をするところ?鎌倉府は、鎌倉公方が関東地方を治めるために設けた「政府」のようなものです。鎌倉にあって、関東地方の政治や軍事、武士の生活をまとめていました。
どんな役割があったの?鎌倉府は、関東全体を治めるための中心的な場所でした。鎌倉公方や関東管領が協力して鎌倉府を運営し、地域全体が平和になるようにがんばっていました。
また、地域の有力な武士たちとも協力し、うまく地域をまとめていました。鎌倉府があったことで、関東地方の統治がスムーズに行われたのです。
もう少し、わかりやすくまとめてみますね。
まとめ 鎌倉公方は、関東地方を治めるために室町幕府から派遣された人です。 古河公方は、鎌倉公方が分裂してできた新しい勢力です。 関東管領は、鎌倉公方を助ける役職で、主に上杉氏が担当していました。 鎌倉府は、鎌倉公方が関東を治めるための政府のようなものです。さて、これで中世の室町幕府における東国支配の役職と組織について、整理できたでしょうか。
当時の東国武士たちにとって、これらの役職や組織をもとに、関東地方をどう治めるかを考える上でとても大切でした。
参考
石井 進『中世武士団』(講談社学術文庫 1974) 植田 真平『対決の東国史④ 鎌倉公方と関東管領』(吉川弘文館 2022)日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan