織田信長が戦国きっての”引っ越し魔”だったのは何故?安土に城を築き、京に築かなかった理由【後編】 (2/3ページ)

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また、信長は北陸の一向一揆と摂津の石山本願寺を敵にしており、この両者を分断するためにも交通を遮断する必要がありました。

さらに、強敵である武田信玄上杉謙信との戦いに備えるためにも、北陸道と中山道を押えることのできる安土は理想的な場所だったのです。

京に築城しなかった理由は?

さて、信長が足利義昭を将軍に奉じて上洛し、実権を握ったのは1568年のことでした。美濃を落とし、その稲葉山城を岐阜と改名し、そこを居城とした直後のことです。

ところが、上洛したものの、信長自身は京にいることはほとんどありませんでした。岐阜を本拠としたままで、そこから義昭を遠隔操作していたのです。

足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)。江戸時代に等持院像を粗描したもの(Wikipediaより)

とはいえ、いまのような通信手段があったわけではないので、義昭を管理するには岐阜は遠すぎ、より京により近いところに城を移す必要がありました。

そこで安土に城を築くわけですが、であれば、京に築城したほうがよかったのではないかという疑問が湧いてきます。

自分が天下を取ったことを示す上でも、京に城を建てた方が分かりやすかったのではないか、ということです。

しかし信長は、京には城どころか別宅も作りませんでした。京では寺に泊まることが多く、本能寺で最期を迎えたのもそのためです。

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