民衆が背負った多大な負担…桓武天皇が遷都した平安京が「未完の都」とされる理由とは? (2/3ページ)

Japaaan

1.天武系の影響が強い平城京

桓武天皇は天智系の血統を引く天皇として、天武系の影響が根強い平城京に違和感を抱いていました。このため、自身の権威を確立するためには、新たな都を必要としました。

2.仏教勢力の台頭

仏教の影響力が強まり、政治に介入する場面が増えていました。特に道鏡のような僧侶が政治に関与する問題が発生し、天皇中心の政治が脅かされていたのです。

3.水上交通の不便さ

平城京は大きな河川が近くになく、物資の運搬に適していませんでした。これに対し、淀川や琵琶湖などの水運に恵まれた山背国(後の山城国)への遷都は、経済や防衛の観点からも有利でした。

これらの課題を解消するため、784年、桓武天皇はまず長岡京への遷都を試みましたが、造営を主導した藤原種継の暗殺や早良親王の非業の死、さらには疫病や飢饉が相次いだため、長岡京はわずか10年で放棄されました。

その後794年に平安京へ遷都し、ここから平安時代が始まることになります。

桓武天皇が進めた二大事業は「平安京の造営」と「蝦夷の平定」でした。

これらは日本の国家体制を強化するための重要な取り組みでしたが、大規模な労働力を必要とするため、民衆への負担は非常に大きいものでした。

1.「造作」 ~平安京造営事業~

遷都後も平安京の整備は完全には終わらず、段階的に進められました。和気清麻呂の提案によって、山背国は山城国と改名され、都を中心とした新しい地名が整備されました。

この造営事業には多くの農民が動員され、社会全体に大きな負担を与える一因となりました。

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