最近は「源平合戦」という名称は使われない?理由は源氏と平氏の複雑な内情にあった
「源平合戦」とは
源平合戦といえば、平安時代末期に起こった平氏政権に対する内乱です。「源氏vs平氏」の戦いとして知られています。
しかし実は、最近はこの源平合戦という言葉は使われなくなってきました。なぜでしょうか? その理由を解説します。
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一般的には、この源平合戦は平清盛を中心とする平家の政権に不満だった源氏の武士が、源頼朝を中心として平家を討つまでの流れのことを指します。
この合戦を経て、栄華を極めた平家の一族は壇之浦で滅び、鎌倉幕府が樹立されました。
合戦の期間は、基本的には1180年の後白河法皇の皇子・以仁王による平家追討の令旨から、1185年の壇之浦の戦いまでの6年間となります。
純粋な「源平」合戦ではなかったさて、以上の内容を一言で源平合戦とは言うものの、源氏と平家の軍勢は、綺麗にそれぞれの一族に分かれて戦ったわけではありません。
まず源頼朝の軍勢ですが、実はこちらの主力は平家出身の一族でした。平家が平家に盾突いたというわけです。
後に執権政治を行った北条氏をはじめ、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でもおなじみの三浦氏、和田氏、梶原氏、畠山氏、千葉氏、上総氏などは、いずれも平家の出身でした。
頼朝軍の主だった面々は源氏ではなく、むしろ平家出身者によって占められていたのです。
一般に、源氏は東日本を本拠とし、平家は西日本に拠っていたと思われがちですが、実際には東日本にも古くからけっこうな数の平家が存在していました。
平将門のケースたとえば、かの平将門の乱を起こした平将門の祖父である高望は、名前のとおり平家の出身です。
889年、高望は上総介に任じられて関東に下りますが、任期が過ぎてもその子供たちは帰京せず、下総国を中心に未開地を開発しました。そうして所有地を広げることで勢力を伸ばしたのです。
関東移住三世にあたる将門は下総国佐倉生まれで、平家一族といえどもすでに関東の人間だったのです。
平安時代中期には、将門と同じように、平家一族でありながら関東で生まれ育った者が増えていきます。そして平安末期になると、源頼朝の蜂起・台頭とともに頼朝の配下に組み込まれていったのです。
「源平合戦」といっても、それは両軍の総大将の血統によるネーミングに過ぎず、配下の血統までは表したものではなかったのです。
このため、最近では源平合戦とは呼ばず、当時の年号を用いて治承・寿永の乱と呼ばれることが多くなってきています。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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