加賀国は「百姓の持ちたる国」!?戦国時代、百姓が自治を獲得した経緯と浄土真宗本願寺との微妙な関係

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加賀国は「百姓の持ちたる国」!?戦国時代、百姓が自治を獲得した経緯と浄土真宗本願寺との微妙な関係

「自治」の獲得

戦国時代は日本各地が乱れに乱れましたが、なかでも特殊だったのは、富樫氏が治めていた加賀国でしょう。

当地では、富樫氏は何の実権もない飾り物になり、事実上百姓が支配していました。

佐久間盛政が築城を開始させた金沢城

富樫氏が転落するのは、一四八八年(長享二)の一揆によってです。

室町時代、一向宗(浄土真宗)は、蓮如の活動によって北陸・近畿地方の武士や農民の間に急速に広まっていました。

これに対して応仁の乱の抗争時、加賀の富樫政親は一向宗を味方につけ、敵対する勢力を退けます。

しかし、勢力を強める一向宗に危機感を抱き、今度は一向宗を弾圧しようとしました。これに反発した信徒たちが守護大名だった政親を滅ぼし、加賀で自治を行うようになったのです。

一揆勢は政親の居城を攻囲し、陥落させます。政親が自害したので、一揆勢力は政親に代わって富樫泰高を守護としました。

ただし、泰高には何の実権もなかったため、実権を持ったのは実質的に一揆勢力の百姓たちだったのです。

本願寺とのつながり

こうした信徒たちによる自治は、16世紀に織田信長が各地の一向一揆を平定し、石山本願寺を降状させるまで約100年続きました。

自治が続いた背景には、室町幕府の衰退と一向宗の支えがあったと言われています。

このことについて、浄土真宗再興の祖といわれた蓮如の子・実悟が、『実悟記拾遺』に「百姓等のうちつよく成て近年は百姓の持ちたる国のやうになり行き候ことにて候」と記しているのは有名な話です。

ちなみにここでいう「百姓」は、単に農民だけを指しません。農民はもちろんですが、商業を営む者、手工業者、侍までも「百姓」でした。

加賀では農民自治が数百年間行われたとイメージする人も多いかも知れませんが、ここまでの経緯を見ると分かる通り、百姓たちを後ろから支えていたのは浄土真宗本願寺派でした。

一四七一年(文明三)、 浄土真宗の拡大を目指す蓮如は、越前の加賀の国境付近にある吉崎に、北陸の布教の拠点をつくっています。

蓮如(Wikipediaより)

以来、加賀にも浄土真宗本願寺派の教えが浸透し、死をも恐れぬ彼らの力が国を覆すほどになったです。

とはいえ、ややこしいのは、一向一揆イコール本願寺というわけでもない点です。

微妙な権力関係

実際には本願寺は一向一揆の指導者に過ぎず、深く一揆を統制する立場にはありませんでした。

事実、長亨の一揆で一向一揆勢が冨樫政親を自害に追い込むと、一向宗の教組といえるはずの蓮如は一向宗門徒の行動を非難・叱責しているのです。

蓮如上人像(西浅草・東本願寺)

このことからも、一揆を実行した人と本願寺宗派は別物であることが理解できるでしょう。

一向一揆が加賀を支配した時も、大名のようなポジションで加賀を統治したのであって、農民が共和制のような形で加賀の国政に直接関与したわけではありません。

先に挙げた実悟の言葉にしても、よく読むと「近年は百姓の持ちたる国の『やうに』なり行き候ことにて候」と記しているわけで、直接的に百姓の持ちたる国であると言っているわけではありません。

こうして見ていくと、加賀の権力関係というのは意外と複雑でややこしく、微妙なバランスの上に成り立っていたといえるでしょう。

参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia

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