脳を負傷しても死なず!単騎で敵中へ殴り込む勇猛すぎる戦国武将・小田部勝成の武勇伝 (2/4ページ)
二本松城に立て篭もった二本松主従は、小田部大学らの奮戦もあって、伊達の猛攻を耐え抜きました。
しかし天正14年(1586年)に入ると調略によって内応者が続出。ついに二本松義綱は二本松城を明け渡し、会津の蘆名氏へ身を寄せたのでした。
これをもって、戦国大名としての二本松氏は事実上滅亡したと言えるでしょう。
「北の関ヶ原」でも活躍
さて。二本松氏の滅亡後、小田部大学はすぐに再仕官せず、しばらく浪人しています。
乗込大学ほどの勇士であればどこでも歓迎されたでしょうに、再仕官した記録がありません。
主君を滅ぼした伊達に仕えたくない気持ちは分からなくもありませんが、他の大名にも仕えなかった理由は何でしょうか。
単に二本松家へ義理立てしていたのか、あるいは伊達あたりから他家に対して奉公構(ほうこうがまい)、すなわち「コイツを雇うな」と嫌がらせをされていた可能性も考えられます。
ともあれ永らく浪人した後、慶長3年(1598年)に片倉景綱(かたくら かげつな)の伝手で伊達家へ再仕官。300石で召し抱えられたのでした。
当時は太閤・豊臣秀吉が世を去ったことで世が再び不穏となってきており、伊達家でも勇士を求めていたのが理由でしょう。