下級武士からの大出世!蝦夷地開拓に雄志を馳せた幕臣・松本秀持(吉沢悠)の生涯【大河ドラマ べらぼう】 (2/3ページ)
元服して通称を十郎兵衛(じゅうろうべゑ)、のち伊豆守(いずのかみ)の官途名を称します。
身分は低くとも才知に富んでいたことから、田沼意次(たぬま おきつぐ)より見出されて勘定方(かんじょうがた)へ抜擢されました。
廩米(くらまい)100俵5口の俸給を受けた秀持は、勘定組頭(~くみがしら)・勘定吟味役(~ぎんみやく)を歴任。そして安永8年(1779年)には勘定奉行(~ぶぎょう)にまで昇進し、500石を知行するようになります。
天明2年(1782年)には御三卿の一家・田安家の家老を兼任。下総国(千葉県北部一帯)印旛沼・手賀沼の干拓事業をはじめ天明期の経済政策を手がけました。
蝦夷地調査に乗り出す
国内整備が軌道に乗ってきた頃合いを見て、秀持は田沼意次に対して蝦夷地調査を上申します。
工藤平助(くどう へいすけ。仙台藩医)の記した『赤蝦夷風説考』を読み、その可能性に着眼してのことでした。
田沼意次は献策を採り入れ、秀持に蝦夷地調査を命じます。
秀持は平秩東作(へづつ とうさく)から蝦夷地に関する情報を収集。平秩は『東遊記』を記すなど、蝦夷地の事情に通じていたのでした。
そして天明4年(1784年)10月、秀持は2度にわたる蝦夷地の実地調査隊を派遣しました。
第1次蝦夷地調査では平秩東作と荒井庄十郎(あらい しょうじゅうろう)が先遣隊となります。