最澄の天台宗、空海の真言宗…日本の仏教を変えた「密教」はその後どのように展開した?
奈良時代の終わり、桓武天皇は平城京から平安京へ都を移しました。この「遷都(せんと)」には大きな理由がありました。
ひとつは、平城京で強くなりすぎた南都仏教の力を弱めるためでした。当時、僧侶たちの中には、国のお金をたくさん使ってお寺を建てたり、権力を持ちすぎたりするものたちがいました。桓武天皇は、こうした仏教界を新しく変えたいと思っていたのです。
民衆が背負った多大な負担…桓武天皇が遷都した平安京が「未完の都」とされる理由とは?そんな中、日本には新しい仏教の流れが生まれました。その立役者が、最澄(さいちょう)と空海(くうかい)という二人の僧侶です。
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平安時代の僧、空海と最澄が、お気に入りの弟子をめぐって三角関係に?804年、この二人は唐(今の中国)に渡り、それぞれ違った仏教の教えを学びました。帰国後、最澄は天台宗(てんだいしゅう)を、空海は真言宗(しんごんしゅう)を開き、日本仏教に新しい時代をもたらしました。
最澄や空海がもたらした仏教には、「密教(みっきょう)」という特徴がありました。密教では「加持祈禱(かじきとう)」と呼ばれる特別なお祈りをします。これは、手で印(いん)という形を作り、呪文を唱えて仏さまの力を呼び出すものです。
ただ、この教えは限られた弟子だけに伝えられました。一方、奈良時代からある南都仏教は「顕教(けんきょう)」と呼ばれ、誰でも経典を読んで学ぶことができました。
また、最澄や空海の仏教では、山で修行することが大切にされました。これは日本に昔からある山岳信仰(さんがくしんこう)の影響を受けたもので、のちに修験道(しゅげんどう)という新しい修行の道も生まれました。
天台宗の拠点は比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)で、真言宗の拠点は高野山(こうやさん)、金剛峯寺(こんごうぶじ)です。
平安時代中期、天台宗は分裂します。比叡山延暦寺を中心とする円仁(えんにん)の「山門派(さんもんは)」と、園城寺(おんじょうじ)を中心とする円珍(えんちん)の「寺門派(じもんは)」が対立するようになりました。
この対立は、僧侶同士の議論だけでは収まらず、やがて僧兵(そうへい)を使った武力衝突に発展しました。
特に、山門派の僧兵は圧倒的な力を持ち、たびたび園城寺を焼き討ちしました。これにより、寺門派は延暦寺を追われ、園城寺を拠点としました。この争いは、平安時代末期には貴族や武士の政治争いにも影響を与えました。
山門派は源氏に、寺門派は平氏に味方するなど、仏教界が政治に深く関わるようになりました。
鎌倉時代に入ると、天台宗は他の新しい仏教宗派の影響を受けながらも存続します。一方で、山門派と寺門派の争いは続き、中世には南北朝時代の政争にも巻き込まれました。さらに、両派の僧兵たちは各地で争いを繰り広げました。
近代になると、天台宗は再編されました。1945年、宗教団体法の廃止をきっかけに、寺門派は「天台寺門宗(てんだいじもんしゅう)」として独立し、現在に至ります。
天台宗の歴史は、宗教の変化や分裂、そして争いを通して日本の歴史と深く結びついています。最澄がもたらした仏教の教えは、時代を超えて今も人々に影響を与え続けています。
参考
『インド中国日本 仏教通史 』平川彰(1977 吉川弘文館) 『日本仏教の礎』末木文美士(2010 講談社学術文庫) 天台寺門宗公式Webサイト日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan