明治新政府に最後まで抵抗した幕末のサムライ・榎本武揚は「最良の官僚」か日和見主義者か?
もうひとつの政権
幕末期に明治新政府に対して最後まで抵抗した榎本武揚(えのもと・たけあき)。
今回は、彼が戦乱で敗れた後、なぜ死罪を免れることができたのか、どのような経緯で新政府の政治家となったのか、そんな彼のことを人はどう評価したのか、などを解説します。
明治新政府に対して、旧幕臣である榎本武揚たちが箱館政権を樹立したのは1868年(明治元)12月15日のことでした。
彼らの役職は選挙によって決められ、総裁に榎本武揚、副総裁に松平太郎、海軍奉行に荒井郁之助、陸軍奉行に大鳥圭介、陸軍奉行並に土方歳三が就いています。
しかし、その政権の寿命はあまりにも短すぎました。五か月後に新政府軍の攻撃が始まると、最初のうちこそ土方歳三らが奮戦したものの、彼が戦死した一週間後には政権の拠点だった五稜郭が陥落します。
そうして榎本・松本・大島・荒井といった主要メンバーは捕えられ、東京へ連行されて獄中の人となりました。
黒田清隆の尽力榎本自身、戊辰戦争を最後まで戦ったのだから刑死も覚悟していたことでしょう。しかし、榎本は他の幹部らとともに死刑を免れ、出所後に新政府の役人となって働くことになりました。
榎本に対しては、もちろん死刑を主張する声も強かったようです。その代表格は新政府の木戸孝允や大久保利通で、それに対して助命運動に奔走したのは薩摩藩出身の黒田清隆でした。
黒田は、榎本こそ新政府に必要な人材だと考えていたのです。彼が榎本を新政府でスカウトすることになった経緯を簡単に見ていきましょう。
黒田は、五稜郭落城の数日前から榎本らに降伏を勧告していました。
すると榎本は、断りの返事とともに、黒田にフランス語で書かれた『万国海律全書』と、
「この書は海軍日本に二つとないものだから、兵火で失うのは惜しい。海軍アドミラル(提督)のあなたに差し上げたい」
という手紙を託していました。
黒田は榎本の行動に感動し、オランダ留学の経験があって学識豊かな榎本を新政府でも働かせたいと考えるようになったのです。
黒田の尽力によって死刑を免れた榎本は、約二年半で出獄しました。
福沢諭吉の評価そして榎本は、開拓次官だった黒田の部下として新政府で働き始めます。
それ以後、特命全権公使としてロシアへ派遣されたり、海軍卿・清国公使・文部大臣外務大臣・農商務大臣などを歴任しました。大物政治家の仲間入りを果たしたと言えるでしょう。
こうした彼の生き方に対しては、当然、強い反発もありました。たとえばかの福沢諭吉は、「二君に仕えるという武士にあるまじき行動を取ったあるまじきオポチュニスト」と酷評しています。
ただ、彼の政策力や外国との交渉力は新政府の官僚の中でも抜群で、彼のことを明治最良の官僚と呼ぶ人もいます。
そうして榎本は維新後は官僚人生をつらぬき、1908年(明治41)まで生き、73歳で亡くなりました。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
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