流浪と反逆!室町幕府のラスト将軍・足利義昭の苦難と悲劇に満ちた壮絶人生【前編】
皆さんは、ドラマ『SHOGUN将軍』、ご覧になられましたか? 日本での制作ではないにもかかわらず、その精緻な日本文化の再現度、徹底したリサーチに基づくリアルな描写、そして日本語がメインの脚本という特異性から凄く話題になりましたよね。
さて、征夷大将軍のことを指す場合が多いこの「将軍」という言葉ですが、日本の歴史には多くの将軍が登場します。その中でも、鎌倉、室町、江戸の三つの幕府を通じて数多くの将軍が歴史を彩りました。
しかし、歴代の将軍たちを振り返ると、最後の将軍という立場ほど、苦難と悲劇に満ちた壮絶な人生を辿った将軍はいないでしょう。
室町幕府最後の将軍である足利義昭(あしかが よしあき)もその一人です。
彼について、Japaaanでは、これまでも何度か取り上げてきました。
足利義昭、織田信長と出会う!やがて袂を分かつ二人の蜜月と野心【前編】 打倒!織田信長に西国を放浪。室町幕府最後の将軍「足利義昭」の執念【前編】織田信長によって京へと入り、再び織田信長によって追放されました。一体、彼はどんな人物で、京都を追放されてから、どのように過ごしていたのでしょうか。そして、どのような晩年を迎えたのでしょうか。
今回は、京都を追放されたその後にもスポットを当てて、足利義昭という人物について、その全容を見ていきたいと思います!
急な家督相続と僧侶としての出発義昭は室町幕府を開いた足利尊氏の血筋ではありますが、家督相続者ではありませんでした。兄である13代将軍・足利義輝が将軍職を継いだため、慣例により仏門に入って、「覚慶(かくけい)」と名乗り、一乗院門跡として活動していました。
出家後の義昭は学問に励み、教養を高めました。彼の知性や文化的素養は、この時期の経験によって培われたものです。
しかし、1565年に「永禄の変」が起き、兄・義輝が三好三人衆に暗殺されるという衝撃的な事件が起きます。この事件により、室町幕府は権威を大きく失い、将軍家は壊滅状態に陥りました。
足利義昭坐像(等持院霊光殿安置) 森末義彰, 谷信一 編『国史肖像集成 将軍篇』(1941 目黒書店)より
義昭は兄の死によって、突如として将軍職継承の可能性が浮上しました。そこで、細川藤孝ら幕臣の援助を受けて南都から脱出、還俗して「義秋(よしあき)」と名乗るようになります。もともと政治の表舞台に立つ予定のなかった義秋にとって、これは運命的な転換点でした。
流浪の日々と理想への決意兄の死後、義秋自身も命の危険にさらされ、各地を逃げ回ることを余儀なくされます。して、この逃亡生活の中で、彼はただ自らを守るだけでなく、「室町幕府の再興」という使命感を抱くようになるのです。
義昭は身分を越え、各地の有力者に助けを求めることで、人脈を築いていきました。その過程で、越前の朝倉義景をはじめとする戦国大名たちと接触し、支援を求めました。
朝倉義景の庇護のもとで、義秋は再び、「義昭」と改名します。一方で、幕府再興は遅々として進まず、朝倉家の消極的な対応に、次第に業を煮やしていきます。そこで、彼が頼ったのが尾張の織田信長でした。この出会いが、義昭の運命をさらに大きく変えることになります。
信長との協力と将軍就任1568年、信長の助力を得た義昭は京都に入京し、15代将軍に就任しました。信長が義昭を擁立した理由は単純ではありません。信長にとって義昭は、室町幕府という権威を利用するための「象徴」に過ぎなかったのです。それでも義昭にとって信長の武力は不可欠でした。
将軍就任後、義昭は混乱した京都の秩序回復に尽力します。彼は寺社の再建を進めるとともに、公家や武士たちと連携し、かつての幕府の権威を取り戻そうとしました。文化的教養にも優れていた義昭は、和歌や書道を奨励し、伝統文化の復興にも力を注ぎました。
参考
桑田忠親『流浪将軍 足利義昭』(1985 講談社) 奥野高広『人物叢書 足利義昭』(1996 吉川弘文館) 久野雅司 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第二巻 足利義昭』(2015 戒光祥出版) 久野雅司『中世武士選書40 足利義昭と織田信長 傀儡政権の虚像』(2017 戒光祥出版) 黒嶋敏『天下人と二人の将軍:信長と足利義輝・義昭』(2020 平凡社)日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan