流浪と反逆!室町幕府のラスト将軍・足利義昭の苦難と悲劇に満ちた壮絶人生【後編】 (2/4ページ)
この出来事は義昭にとって千載一遇の機会でしたが、義昭を支持する毛利氏はすぐに行動を起こさず、結果的に義昭が再び京都に戻る機会は失われます。代わりに、信長の後継者として台頭した羽柴秀吉が新たな政治秩序を築いていきました。
信長の死後も義昭は諦めず、秀吉に対しても自らの正統性を示しつつ関係修復を図ります。
1586年、九州を平定しようとする豊臣秀吉の命を受け、毛利輝元が先陣を切って進軍を開始しました。しかし、島津氏の軍勢は非常に精強であり、毛利軍は苦戦を強いられました。
このような状況下、足利義昭は自身の影響力を活かして、和平交渉に動きます。これは、義昭が毛利氏の意向を受けて動いたものと考えられます。毛利氏はかねてより島津氏と友好関係にあり、全面的な戦闘は避けたかったため、義昭を和平の仲介者として利用したのです。
3月、秀吉が九州へ進軍する途中、義昭の住む鞆の御所近くで義昭と対面しました。この再会は十数年ぶりのもので、秀吉はすでに従一位・関白・太政大臣という地位にあり、義昭をはるかに超える存在となっていました。しかし、義昭と秀吉は贈り物を交換し、酒を酌み交わして親交を深めました。
義昭は、島津義久への和平交渉を粘り強く続け、4月には最終的に島津氏が秀吉との講和に応じる形を取りました。この結果、島津氏の降伏が実現し、秀吉の九州平定は大きく前進したのです。
秀吉の台頭と共に義昭は秀吉との協力関係を築き、最終的に鞆を離れて京都に帰還します。これにより、義昭が築いた鞆幕府は事実上の終焉を迎えます。
義昭の晩年京都に戻った義昭は将軍職を辞し、朝廷から准三宮の称号を受けます。これにより、室町幕府は名実ともに終焉を迎えました。その後、義昭は出家し、昌山道休と号して静かな余生を送りました。
晩年の義昭は、秀吉の御伽衆として政治の表舞台を退きつつも、武家社会の伝統や文化を守る立場を担い続けました。また、秀吉からも一定の敬意を払われており、前将軍としての名誉を保ったまま生涯を閉じました。
足利義昭の生涯は、政治的な失敗として語られることが多いですが、彼の生き方には評価されるべき側面も少なくありません。