徹底的な報復で352名が処刑!幕末の激動期 最大の悲劇「天狗党の乱」とは?
幕末の激動期における事件の一つ、「天狗党の乱」は、水戸藩を中心とする尊皇攘夷派の集団が起こした大規模な反乱です。
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【幕末維新】天に達すか、尊皇攘夷の志。水戸天狗党の乱に散った志士・藤原天達1864年(元治元)年、筑波山で挙兵し、352名が処刑されるという、この幕末最大の悲劇は、「元治甲子の乱」とも呼ばれています。それにも関わらず、高校の日本史の教科書でさえ、大きく取り扱っていないため、その全容を知らない読者の方も多いと思います。
そこで今回は、乱が起きた背景や経緯、そして結末を詳しく解説していきます。
尊王攘夷派の集団「天狗党」もともと「天狗党」は、水戸学の思想に影響を受けた尊皇攘夷派の集団でした。水戸学は、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が推奨した学問で、天皇を尊ぶ尊皇思想を中心としています。その誕生には、1829(文政12)年、水戸藩内の後継者問題に端を発しています。
徳川斉昭が藩主に就任し、藤田東湖や会沢正志斎ら改革派が登用されました。彼らは藩政改革を進める一方で、反対派と激しく対立し、尊皇攘夷派を形成していきました。これがやがて「天狗党」と呼ばれる過激派組織に発展していくのです。
「天狗党」という名称は、もともと反対派の人物が、彼らの傲慢な態度や暴力的な行動を揶揄する意味でつけたものですが、斉昭は「義気があり国家に忠誠心のある有志を天狗と呼ぶ」と主張し、正当化していました。
次第に暴力的な行動に1864(元治元)年3月27日、藤田小四郎(藤田東湖の四男)は筑波山で同志62名と共に挙兵しました。この行動の背後には、幕府に横浜鎖港を強く求めるという目的がありました。
天狗党は尊皇攘夷を掲げつつも、次第に暴力的な行動に傾いていきます。挙兵後には、浪士や農民が次々と加わり、最盛期には約1,400名に膨れ上がりました。
天狗党は挙兵後、道中で食料や資金を強奪し、各地で暴力行為を繰り返しました。特に被害が大きかったのは栃木宿で、町が焼き討ちに遭い甚大な被害を受けました。
このような行動により、天狗党は地域住民から敵視され、孤立を深めていきます。
徹底的な報復が行われ352名が処刑天狗党の暴走を受け、幕府は鎮圧を決定しました。最終的に天狗党は加賀藩に降伏し、幕府軍に引き渡されます。
捕らえられた天狗党の兵士たちは敦賀で過酷な環境に拘束され、最終的に352名が処刑されました。この処刑には天狗党の家族も巻き込まれ、徹底的な報復が行われました。
結局この一件は、水戸藩内の派閥争いや思想的対立をさらに深刻化させることになりました。
この事件における犠牲者は、天狗党だけでなく、その家族や関係者にも及んだといいます。また、乱の影響で水戸藩は多くの優秀な人材を失い、その後の明治政府においても影響力を発揮することができませんでした。
このようにして、後の時代にまで強く影響を残すことになったのです。
参考文献
栃木市史編さん委員会 編『栃木市史 通史編』(1988年) 水戸市史編さん委員会 編『水戸市史 中巻(五)』(1990年 ) 山川菊栄『覚書 幕末の水戸藩』(1991年 岩波書店) 長谷川伸三(他)『茨城県の歴史』(1997年 山川出版社) ヴィクター・コシュマン『The Mito Ideology 水戸イデオロギー:徳川後期の言説・改革・叛乱』(1998年 ぺりかん社、原著1987年) 吉田俊純『水戸学と明治維新』(2003年 吉川弘文館) 高橋裕文『幕末水戸藩と民衆運動 尊王攘夷運動と世直し』(2005年 青史出版) 奈良勝司『明治維新と世界認識体系 幕末の徳川政権 信義と征夷のあいだ』(2010年 有志舎)
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