「水鳥にビビッて退却」は作り話だった!?武将・平維盛の情けないエピソードが創作された理由とは?

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「水鳥にビビッて退却」は作り話だった!?武将・平維盛の情けないエピソードが創作された理由とは?

頼朝の挙兵と撤退

源頼朝(みなもとのよりとも)が1180年(治承四)8月17日に伊豆で挙兵しましたが、伊豆目代の山木兼隆を討ったものの、石橋山の戦いでは完敗。命からがら、真鶴半島から安房へ落ちのびました。

その後、頼朝は房総半島を北上しながら兵を集め、安房から上総・下総へ、そして武蔵に出て鎌倉に入ります。

源氏山公園の源頼朝像

平家はそうした頼朝の動きに対して、討伐軍を差し向けました。この時、平家軍の大将に任ぜられたのは、平清盛(たいらのきよもり)の孫の平維盛(たいらのこれもり)でした。

頼朝は、平家が向かってきていると知って鎌倉を出発します。そして10月、平家と源氏の軍勢は富士川をはさんで対峙することになりました。

富士川は、長野県・山梨県及び静岡県を流れる河川で、現在でも一級水系富士川の本流として有名です。日本三大急流の一つでもあり、古くから甲斐と駿河を結ぶ水運としての要路でもありました。

富士川(Wikipediaより)

「水音にビビッて」退却した維盛

もともと、軍勢は源氏軍のほうが多かったのですが、悪いことに、平家は源氏軍を実際よりも多勢に見積もってしまいました。

富士川周辺の農民が合戦を避けて近くの山に逃げこんでいたのですが、平家はその農民が使う火まで源氏軍の篝火と勘違いしたのです。

結局、平家軍は戦うことなく退却するのですが、その退却劇には有名なエピソードがあります。

富士川古戦場・平家越の碑

『平家物語』によると、平家の軍勢は夜ふけに水鳥の羽音を聞いて、それを源氏の大軍の奇襲と勘違いして逃げ去ったというのです。

一方で『吾妻鏡』によると、その夜、源氏方の武将の武田信義の手勢が平家に奇襲をかけ、小競り合いがあったそうです。

その小競り合いによって富士川の水鳥が驚き、平家の総大将である平維盛は、その羽音を源氏の大軍による奇襲と勘違いして退却を決意したというのです。

こうしたエピソードが本当なら、武将として実に情けない話ですね。

なぜ語り継がれたのか

しかし、実際のところ、これらの「水鳥の羽音にビビッて維盛が退却した」エピソードは後世の作り話で、現在では平家軍は最初から戦意が乏しく、勝ち目が薄いとみて退却したとみられています。

歌川芳虎『大日本六十余将』の平維盛(Wikipediaより)

平家の戦意の乏しさの背景には、1179年から二年つづいた西日本の凶作があったとみられています。

平家の地盤である西日本では各地で飢饉が発生し、疫病も流行していました。京都でも多数の餓死者が出ていたと伝えられています。

つまり、平家は飢饉と疫病流行の渦中にあって、兵を集めることもままならなかったのです。

実際、当時は辛うじて集めた兵も、数合わせにすぎない借り武者が多くかったといいます。

そんな状況だったことから、「水鳥の羽音を聞いて逃げ出す」といった情けない話が語り継がれることになったのでしょう。

参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia

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