大将の討死、敗走、殲滅…戦国時代、合戦の勝敗はどのように決められていたのか?判断基準を紹介
判断基準は「敗走」
今回は、戦国時代の合戦が「どのように終わっていたのか」について見ていきましょう。まずは、合戦の勝ち負けの判断基準から。
こうした判断基準はいろいろあったようですが、最も分かりやすいのは、どちらかの軍勢が敗走することでした。
両軍が激突すれば、次第にどちらかが押しこむようになります。
そして押しこまれた方はだんだん戦意を失っていき、損害が大きくならないうちに敵に背を向けて敗走することになるでしょう。
有名な合戦も、多くはこうした形で勝敗が決まっています。例えば姉川の合戦や山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦、関ヶ原の合戦などは、どちらかの軍勢が敗走することで勝敗が決まりました。
また、どちらかの軍勢の大将が討ち死にするか自害することで合戦に白黒がつくこともありましたが、これは実際には稀なケースです。
戦国時代の合戦での決着といえば「討ち死に」のイメージが強い人も多いと思うので、これは意外に思われるかも知れません。
例えば、織田信長が今川義元を討った桶狭間の合戦や、毛利元就が陶晴賢を倒した厳島の合戦がこのケースに該当しますが、こうした例は意外と特殊だったのです。
基準はさまざままた、もう一つの数少ないケースとして、どちらかの軍勢が一方的に殲滅されて勝敗がついたケースもあります。
大友軍が島津軍に追い込まれ、耳川の激流に呑まれた耳川の合戦がこれにあたります。
ここまでは勝敗がわかりやすいケースですが、他にも、どちらが優勢というわけでもなく、両軍が適当なところで引き上げたという戦いも少なくありません。
こうした合戦の場合は、お互いの軍が「勝ったのはわが軍である」と宣伝していました。今で言う(言わないですが)大本営発表みたいなものでしょうか。
大本営発表であれなんであれ、より宣伝上手だった方が兵や民の心を掴むことができたのは、戦国時代も同じだったようです。
実際、そうやって人心を掌握できた武将の方が、最終的な勝者となることも少なくありませんでした。
討ち死にした武士の葬儀は…ところで戦国時代、こうした合戦で討ち死にした場合、亡くなった武士の葬儀代はすべて主家の負担で行われていました。
その際、戦死者に子弟がない場合でもそれでお家断絶とはせず、当座は父母や妻に緑を与え、彼らの選んだ者に家督を継がせるのが普通でした。
自分が戦場の露と消えても、家は残り、家族の面倒を見てもらえるというセーフティネットが用意されていたからこそ、 武士たちは主家のために必死になって戦ったのです。
さらに、合戦で負傷した武士のところにもできるだけ大将自身が見舞いに出かけ、労りの言葉をかけるのが一般的でした。
さらに、医者や介抱人を主家の負担でつけて、元気になるまで世話をしてやったのです。
それくらい家臣を厚く待遇できなければ士気はあがらず、 統率もできません。これらは組織の上に立つものとして当然の行動でした。
戦国時代の合戦は、一つひとつがこうやって「終わって」いたのです。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む 雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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