家康の無謀な挑戦と信玄の巧妙な戦略!戦国ファンには有名で同時に謎も多い「三方ヶ原の戦い」とは? (2/3ページ)

Japaaan

最も有名なのは、信玄が浜松城を無視して北上したことで、家康がその背後を狙われる恐れから出陣したというものです。また、家康が「祝田坂」で武田軍に立ち向かうことで、自らの軍の信頼を確保し、領民や家臣たちに強い姿勢を示す狙いもあったと言われています。

また、別の説によれば、家康が武田軍に無視されたことへの屈辱や、戦局の進展が自分にとって有利に働くと思い込んだ結果として、出陣したという解釈もあります。このように、家康の出陣には多くの要因が絡み合っており、後の「敗戦の教訓」が深く影響を与えたとも考えられています。これらに関しても、まだまだ検証の余地を残すところです。

三方ヶ原の戦いは、武田信玄が徳川軍を圧倒する形で進行しました。武田軍は兵力で圧倒していた上、信玄の戦術は巧妙でした。

徳川軍は、信玄軍に完全に包囲され、わずか2時間ほどの戦闘で壊滅的な敗北を喫しました。

戦闘の結果、武田軍の死傷者は200人程度で、徳川軍は2,000人もの死傷者を出したと言われています。ただこれも、実際には武田軍490人、徳川軍1080人程度の死傷者だったとする説もあり、はっきりしたことは分かっていません。

いずれにせよ、家康は命からがら浜松城へ撤退し、その後も武田軍の追撃を逃れました。

三方ヶ原の敗北後、家康は一度は壊滅的な状況に追い込まれました。一方で、この敗北を糧にし、後の長篠の戦いで武田軍を破り、最終的には天下統一に向けた道を歩みます。

また、家康は三方ヶ原での自らの姿を戒めとして、生涯その肖像画を醜く描かせ、常にその敗北を忘れないようにしたとも言われています。

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