戦国時代、城主が自刃するような「落城」はほとんどなかった!?想像以上に地味だった落城劇の現実

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戦国時代、城主が自刃するような「落城」はほとんどなかった!?想像以上に地味だった落城劇の現実

「ドラマチック」な落城

戦国時代の「落城」と聞くと、どのようなイメージが頭に浮かぶでしょうか。

燃え盛る天守閣、城を包囲する兵士たち、逃げ惑う人々、そして城主は一族もろとも自刃……。そんな情景が思い浮かぶという人も多いかも知れません。

しかし実際には、そうした派手でドラマチックな「落城」は、当時はほとんどありませんでした。

派手な落城といえば、まず小谷城の落城が挙げられます。

1573年(天正元)8月、近江の小谷城は、織田信長軍に包囲されました。小谷城には、いったんは信長と同盟を結びながら、のちに裏切った浅井長政軍が籠っていました。

浅井長政像(Wikipeidaより)

長政の妻お市は、よく知られているように信長の妹です。信長は、妹の安否も考えて長政に投降を勧めたものの、長政はこれを拒否します。

そこで、8月26日、羽柴秀吉の一隊が本丸の背後にある京極丸を占拠。これによって、浅井側は本丸に籠る長政と小丸に籠る父の久政が分断され、翌日には久政が自刃しました。

長政は、お市と三人の娘を信長側に引き渡して抵抗を続けましたが、29日には長政も自刃。ついに小谷城は落城することになります。

小谷城址の石碑(Wikipediaより)

この小谷城の落城は、お市が絶世の美女といわれることもあって落城劇の典型として語り継がれてきました。しかしこのようなドラマチックな落城劇は、戦国時代にもめったに起きなかったのです。

現実は「地味」な落城

そもそも城攻めは、攻める側にも守る側にも莫大な損害が出るものでした。信長や秀吉のような圧倒的な戦力と軍資金がなければ、なかなか踏み切れるものではなかったのです。

よって大抵の場合、城攻めの前に政治工作を行って敵の家臣を寝返らせるなど、相手陣営を切り崩すところから始まります。

それに成功して、相手陣営が弱体したのを確認してから初めて攻撃に出るというのが一般的なパターンだったのです。

また切り崩された方も、徹底抗戦してはお家壊滅の危険があります。戦況が不利なことを悟ったら和睦のための交渉に乗り出すか、城主は逃亡するというケースもありました。

そのため、小谷城のような落城劇はまれで、現実には双方合意のうえでの開城か、城主の逃亡による無血占領という話のほうがはるかに多く、戦国時代の落城は想像以上に「地味」なものだったのです。

城主が逃亡した有名な例としては、直木賞を受賞した『黒牢城』の主人公・荒木村重のケースが挙げられます。彼は一族を見捨てて一人で逃亡しました。彼の謀反と逃亡によって、700人もの関係者が織田信長によって処刑されています。

参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia

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