江戸時代の経済を支えた両替商と「銀座」の意外な関係に迫る!

Japaaan

江戸時代の経済を支えた両替商と「銀座」の意外な関係に迫る!

「銀座」の由来

江戸時代、銀貨幣鋳造所は「銀座役所」と呼ばれており、「銀座」とはこうした鋳造所のことを指していました。

関連記事:

「銀座」の本当の意味は?「金座」もあるって本当?地方都市に「〇〇銀座」が多い理由も探る

銀座は、江戸・駿府・佐渡・京都の四か所にあった金座と違って幕府直轄の貨幣鋳造所ではなく、幕府から許可されて銀貨の鋳造を行っていました。

1598(慶長3)年、家康が京都の伏見に銀座を設け、堺の南鐐座から銀の精錬技術にすぐれた湯浅作兵衛常是を招いたことから「銀座」の歴史は始まります。

銀座四丁目交差点の夜景

銀座は、伏見・京都・大坂・長崎・駿府・江戸などに設けられましたが、直接製造にかかわっていたのは江戸と京都だけで、1800(寛政12)年からは江戸に統合されました。

江戸の銀座は現在の東京都中央区銀座二丁目のあたりで、明治時代に鉄道の起点となった新橋と、江戸の経済の中心地であった日本橋を結ぶ位置にありました。

そのため銀座通りはにぎわい、「銀座」という言葉は繁華街の代名詞となったのです。

銭貨を鋳造する銭座も各地に設けられていましたが、多くは1700年代後半に廃止されました。現在も静岡市や長崎市などに銭座町という地名が残っています。

「江戸の金遣い、上方の銀遣い」の理由

さて江戸時代には、貨幣を使用した全国的な商品流通が活発に行われるようになっていましたが、「江戸の金遣い、上方の銀遣い」と称して、江戸ではおもに金貨が、上方(京都や大坂)ではおもに銀貨が使われていました。

上方で銀貨が使われていたのは、石見銀山(島根県)や但馬銀山(兵庫県)など、おもな銀山が西日本にあったからです。

また、佐渡金山(新潟県)や甲斐金山(山梨県)など、おもな金山は上方より江戸に近い地域にありました。

「史跡 佐渡金山」坑道の入口(Wikipediaより)

ですから、江戸と上方で取り引きを行う場合は、相手に合わせて両替しておいたほうが、円滑に商売ができたのです。

そこで、いわゆる両替商の存在が大きくなっていきます。

関連記事:

江戸時代の貨幣計算のややこしさに驚け!当時はなぜ「両替商」が経済に不可欠だったのか?

両替商の存在意義

現在、私たちが外国に旅行をする際、日本円をその国の通貨に交換することを「両替」といいます。

この時代の「両」は小判金の単位でしたから、「両替」という言葉は「金1両を他の貨幣に替える」ことを意味していて、それを商売にしている商人が「両替商」と呼ばれました。

とくによく知られた両替商には、呉服店から発展した三井、酒造業から発展した鴻池があります。

三井は明治時代になってから第一国立銀行を経て三井銀行となり、その後、合併を繰り返して現在は三井住友銀行となっています。

三井住友銀行大阪本店ビル(大阪市中央区)

鴻池は明治時代になってから第十三国立銀行となり、鴻池銀行を経て、合併を繰り返し、三菱UFJフィナンシャル・グループとして現在にいたっています。

都市で生活をする人々にとって貨幣は不可欠なものであり、両替商はその人たちの経済活動を支えていました。その存在意義は、現在も生きているといえるでしょう

参考資料:執筆・監修阿部泉『明日話したくなるお金の歴史』清水書院、2020年
画像:photoAC,Wikipedia

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「江戸時代の経済を支えた両替商と「銀座」の意外な関係に迫る!」のページです。デイリーニュースオンラインは、両替商江戸時代お金銀座経済カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る