江戸時代、両替商が「為替(かわせ)」の仕組みを劇的に発展させた!幕府の難題を解決した三井越後屋

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江戸時代、両替商が「為替(かわせ)」の仕組みを劇的に発展させた!幕府の難題を解決した三井越後屋

鎌倉時代からあった「為替」

いつの時代でも、多額の現金を持ち歩くときには、事件や事故に巻き込まれたらどうしようと心配になるものです。

そのため、安全に遠隔地に送金する為替(かわせ)という仕組みが、鎌倉時代に考案されました。

為替は、貸借の決済を行う際、現金のかわりに手形・小切手などの信用手段を用いる方法です。

鎌倉時代には為替(かわし)・替米(かえまい)・替銭(かえせん)という名称で実施されていました。ちなみに「かわせ」の語源は「交わす」で、交換するシステムを意味しています。

全国的な商品流通が発達した江戸時代には、その仕組みがさらに大規模に行われるようになります。その経緯を解説しましょう。

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三井越後屋が請け負った大仕事

1690(元禄3)年、江戸の御金奉行が、「大坂御金蔵銀御為替御用」の役目を請け負う両替商を募集しました。

大坂にある幕府の蔵屋敷には、幕府の直轄領などから年貢米などのさまざまな物資の売却代金や運上金などが集められます。

大坂御金蔵銀御為替御用とは、蔵屋敷から何万両もの銀貨を「御用金」として受け取り、二か月後に江戸の御金奉行に上納する役目です。

それまでは、上方から江戸まで東海道経由で現金を運んでいましたが、それを為替によって行おうというのです。

呉服商としてすでによく知られていた三井越後屋は、その役目を請け負うことにしました。三井越後屋は、自分のところの仕入と販売のシステムを活用して、この難題をクリアすることになります。

ご存じ、三井家の基礎を築いた三井高利(Wikipediaより)

三井越後屋の本業は呉服商ですから、商品は京都の西陣織や友染の絹織物、また丹後縮緬、河内木綿などの反物が多く、上方から仕入れることが殆どでした。

一方、商品が売れるのは主に江戸ですから、売れた代金を上方に送り、次の仕入れに備えなければなりません。

つまり三井越後屋の売り上げは江戸から上方に送金し、幕府の御用金は反対に上方から江戸に送るので、本来なら現金が行き違うことになります。

難題を解決してさらなる発展

そこで三井越後屋は、大坂にある幕府の御用金蔵から銀貨を受け取って仕入れ金に回し、江戸の店舗の利益から御用金を金貨で幕府に納めることにしました。

こうすれば本物の現金を動かす手間は最低限で済みます。よって人手と時間をかけずに、しかも安全に、幕府と三井越後屋の両方に現金を納めることができるわけです。

ちなみに幕府や諸大名は蔵物を大坂で換金し、大坂の両替商から江戸の両替商にあてて振り出した為替手形にかえて江戸の両替商から支払いを受け、幕府財政や江戸屋敷の費用を賄うという方法を採用していました。

こうした方法が実現できるわけですから、三井越後屋のような両替商の存在は頼もしかったことでしょう。

江戸時代の両替商のイメージ

そんなこともあってか、幕府は為替手数料も両替手数料も払わない代わりに、大坂から江戸に送金する期限の二か月間(のちに三か月間)は、幕府に納めるべき御用金を運用して利益を得ることを認めるという特典までつけました。

こうして三井越後屋は、幕府の信用を得ることによって、ますます両替商として発展したのでした。

これとあわせて、特に大坂・京都・江戸などの両替商が中心となって、為替という仕組みそのものが劇的に発達していったのです。

参考資料:執筆・監修阿部泉『明日話したくなるお金の歴史』清水書院、2020年
画像:photoAC、Wikipedia

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