武士は本当に『忠義』を尽くしていたのか?タフな戦士「鎌倉武士」たちのリアルな生き方
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鎌倉時代の武士というと、主君に命を捧げる「忠義の武士」を思い浮かべる人が多いでしょう。武士は、常に主君に忠誠を誓い、命を懸けて戦った――そんな理想的なイメージが語られがちです。
でも、実際の鎌倉武士たちの姿は、それほど単純なものではありませんでした。彼らが生きた現実は、忠義と現実の狭間で揺れ動く複雑なものだったのです。
今回は、そんな武士たちのリアルな生き方を一緒に探っていきましょう。
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お金の悩みは現代と同じ…お金のため命をかけた狂戦士「鎌倉武士」の切実な”中抜き”事情 武士の誕生と鎌倉幕府武士という存在が生まれたのは、平安時代の後半です。当時、都では貴族たちが政治を行っていましたが、地方の治安は悪化し、貴族たちがそれを抑えることができなくなりました。
そこで登場したのが、地方の武力を持った武士たちです。彼らは自分たちの領地を守るために「武士団」を結成し、次第にその力を強めていきました。
やがて源頼朝が武士をまとめ、1185年に鎌倉幕府を開いたことで、武士は日本の支配者となります。それまで貴族が国を治めていた時代から、武士が政治を動かす新しい時代が始まったのです。
鎌倉武士の日常生活は意外とのどか?”武士”と聞くと戦場での激しい戦いをイメージするかもしれませんが、鎌倉武士の日常は戦いばかりではありませんでした。平時は領地で農業をしたり、家族と一緒に田畑を耕したりと、農民のような生活を送っていました。戦いがない時期には狩りを楽しむこともあったようです。
しかし、戦が始まればすぐに武士に戻れるように、日々の鍛錬は欠かせませんでした。弓や太刀、薙刀の稽古を重ね、馬術の技術も磨きました。
当時の戦いは個人の武勇が重視されたため、これらの鍛錬が生死を分けることもあったのです。
忠義と現実の狭間で揺れ動く武士たち
鎌倉武士といえば、やっぱり気になるのが『忠義』です。
武士は主君に忠誠を誓い、命を捧げる存在とされていますが、実際はそう単純な話ではありませんでした。彼らが本当に忠義を大切にした場面もありますが、現実的な判断で主君に背いたケースも少なくありません。
たとえば1221年の「承久の乱」では、後鳥羽上皇が幕府を倒そうと武士たちに協力を求めましたが、ほとんどの武士は上皇の命令を無視し、幕府側につきました。
理由は単純です。上皇に従ったとしても領地が保証されるか分からず、むしろ幕府側についた方が戦後に新たな領地をもらえる可能性が高かったからです。
彼らにとって「忠義」とは、主君への絶対的な忠誠ではなく、家族や領地を守るための現実的な選択だったのです。
夏目漱石の小説『草枕』には、こんな一節があります。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される」
これは、理性ばかり優先すれば衝突が起こり、感情に流されれば物事は思い通りにいかないという意味です。鎌倉武士たちもこの「理性」と「感情」、「忠義」と「現実」の狭間で常にバランスを取らなければならなかったのではないでしょうか。
彼らはそのときどきで最善の選択をし、厳しい時代を生き抜いていったのです。
戦場での武士の姿
鎌倉武士が戦場に立つとき、現代の戦争とは異なるルールがありました。戦いの前には、敵に向かって「名乗り」を上げ、自分の名前や家柄を誇りながら戦いを挑むことが武士の美学でした。
ただし、戦いが激しくなると、そんなルールは無視され、集団戦が行われることもありました。理想と現実は常に違っていたのです。
理想と現実を行き来するタフな戦士たち結局、鎌倉武士たちは単なる「忠義の象徴」ではなく、現実をしっかりと見据えたタフな戦士でした。家族と領地を守るために戦い、必要とあれば主君に背くこともありました。
その現実主義こそが、彼らが過酷な時代を生き抜くための力だったのでしょう。
理想と現実の狭間で揺れ動いた武士たちの姿は、私たちが日常で悩みながら選択をしている姿とどこか重なります。
歴史を振り返るとき、私たちはつい理想的な英雄像を求めがちですが、彼らのリアルな生き方を知ることで、歴史がぐっと身近に感じられるのではないでしょうか。
参考文献
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan