ライト兄弟より先に飛行機を発明!?日本の航空技術を切り拓いた二宮忠八の功績【前編】

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ライト兄弟より先に飛行機を発明!?日本の航空技術を切り拓いた二宮忠八の功績【前編】

飛行機の発明者として多くの人が ライト兄弟 の名前を挙げるでしょう。しかし、実は彼らが有人動力飛行を成功させる 10年以上も前 に、日本人が独自に飛行機の開発を試みていたことをご存じでしょうか?

その人物こそ 二宮忠八(にのみや ちゅうはち)

二宮 忠八 (wikipediaより)

彼は 日本初の飛行器(ひこうき) を発明し、有人飛行を目指しましたが、資金や社会の理解の壁に阻まれ、その夢は実現しませんでした。彼の物語は、 新しい技術や発明がいかに先見的であっても、理解や支援がなければ埋もれてしまう という重要な教訓を私たちに伝えているように感じます。

そこで、今回は、 日本航空技術の先駆者・二宮忠八が辿った波乱の人生と挑戦について見ていきたいと思います。

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少年時代 ― 空への憧れと発明家としての芽生え

1866年、愛媛県八幡浜市に生まれた二宮忠八。幼い頃、家は裕福でしたが、父の死や兄たちの放蕩、事業の失敗で困窮し、忠八は雑貨店や薬屋で働きながら家計を支えました。それでも夜な夜な物理学や化学の本を読み、発明への情熱を燃やしていきます。

凧作り にも夢中になり、自ら考案した「忠八凧」を販売するなど、発明への第一歩を踏み出しました。また、錦絵に描かれた気球 に強く憧れ、「気球付きの凧」を作るなど空への夢は膨らむばかりでした。

カラスの滑空から着想を得た「飛行器」

1887年、忠八は 香川県丸亀歩兵第12連隊 に徴兵されます。ある日、野外演習中に カラスが羽ばたかず滑空する姿 を目にし、「固定翼を使えば人間も空を飛べるのではないか」と閃きます。これが「固定翼飛行機」発明のきっかけとなりました。

1889年、忠八は 「烏型飛行器(からすがたひこうき)」 を製作。陸軍病院勤務の際に 聴診器のゴム管 を流用し、ゴム動力でプロペラを回す推進式の 模型飛行器 を完成させました。 1891年4月29日長さ45cm、翼幅30cmの模型3mの滑走後、約10mの飛行に成功。日本初のプロペラ飛行実験となり、翌日には36mの飛行を記録しました。

有人飛行を目指した「玉虫型飛行器」と軍の冷たい反応

1893年、忠八は有人飛行を想定した「玉虫型飛行器」を設計します。これは無尾翼の複葉機で、下の翼が操縦翼面 として機能する先進的な設計でした。縮小模型(翼幅約2m)を製作し、さらなる飛行実験を重ねます。

忠八は 日清戦争 に従軍中、「飛行器が戦場で偵察や観測に役立つ」と考え、参謀・長岡外史大佐大島義昌旅団長 に軍事利用を三度上申しますが、「今は戦時中である。本当に飛んだら聞いてやろう」と一蹴されます。失望した忠八は 陸軍を退役 し、資金を自力で調達しながら独力で研究を続ける道を選びました。

しかし、当時の日本では、 莫大な資金 が必要な飛行機開発を個人が行うのは非常に困難で、忠八は夢を一時断念することになります。

次回の【後編】に続きます

参考文献

生駒忠一郎『二宮忠八・伝 世界の飛行機発明の先駆者』(2002 KTC中央出版) 上山明博「飛行機の父、二宮忠八」『<朝日選書> ニッポン天才伝─知られざる発明・発見の父たち』(2007 朝日新聞社) 木立順一『日本偉人伝 利他の心の文化が生んだ世界に誇る人物』(2014 メディアポート)

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