鬼平・長谷川平蔵が務めた江戸時代の特別警察「火付盗賊改」実は意外と権限が弱かった?
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江戸時代の特別警察
池波正太郎の『鬼平犯科帳』に登場する「鬼平」こと長谷川平蔵が長を務めた火付盗賊改は、江戸時代に実際にあった役職です。
江戸時代、わずか50人で江戸の犯罪を取り締まった「火付盗賊改」はどんな組織構成だったのか?しかし江戸時代の警察組織といえば、町奉行の方をイメージする人も多いことでしょう。『鬼平犯科帳』でも、平蔵を疎ましく思う北町奉行の初鹿野河内守と、火盗改と良好な関係にある南町奉行の池田筑後守が登場します。
これらの町奉行に対して、火付改は放火犯や盗賊の取り締まりに特化した特別警察ともいえる組織でした。
火盗改の誕生のきっかけになったのは、江戸城天守をはじめ江戸の六割を焼失させた明暦の大火(1657年)です。
火事によって荒廃した江戸の街に多数の盗賊団が入り、江戸の治安は急激に悪化しました。
これに対処するために寛文5年(1665年)に設置されたのが、盗賊改だったのです。
足軽大将にあたる役職その後、火付改や博打改も設けられ、三つの「三改」が統廃合していくことになります。
当初の火付盗賊改は幕府の職制上の役職ではなく、先手頭や持之頭の中から兼任を命じられた役職でした。
ちなみに先手頭とは戦時に先陣を務める役職で、御先手組弓頭と御先手組筒頭の総称です。また持之頭は将軍の弓や鉄砲を管理する役職で、御持組弓頭と御持組筒頭の総称です。
「火付盗賊改」も、最初は通称として用いられていたものが正式な職名になったもので、『徳川実紀』では、「盗賊考察」「火賊捕盗」「捕盗加役」などさまざまな名称が用いられています。
この役職は幕末の慶応2年(1866年)まで201年間続き、のべ240人(実数197人)が就任しました。
このうち先手頭が就いたケースが全体の95%を超えます。先手頭は、戦国時代では足軽大将に相当する武官でした。
平時においては江戸城内の各門に交代で勤務し、将軍の出行においては警備を担った、江戸幕府の組織の中でも実戦的な役職だったといえるでしょう。
実は権限が弱かったさて、町奉行が江戸幕府の最高執政職の老中の管轄であるのに対して、火盗改を管轄するのは老中に次ぐ若年寄です。
『鬼平犯科帳』で、平蔵が武士や僧侶の犯罪に苦慮するシーンがありますが、火盗改が逮捕できる者は「宗門人別改帳」から外された「無宿」や百姓・町人に限定されました。
また彼らが取り締まる犯罪は放火と強盗をメインとして、これに準じるゆすり(恐喝・脅迫)、かたり(詐欺)、ねだり(いいがかり)、博打に限られていました。
そのため、犯罪者が武士の場合や殺人などを犯した凶悪犯の場合は、原則として管轄によって町奉行・寺社奉行・勘定奉行の三奉行のいずれかに引き渡すことになっていました。
また町奉行は刑の仕置(執行)の手限権(決定権)を有していましたが、火盗改は原則的に仕置の手限権はなく、罰金(過料)などの軽い刑を課す場合にも必ず老中に仕置伺いを提出しなくてはなりませんでした。火付盗賊改は、意外と権限が弱かったのです。
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その後、幕末の文久3年(1863年)には火盗改の手限権も拡大され、入墨刑以下の軽い刑については仕置が認められるようになりました。
『鬼平犯科帳』では、平蔵が上級武士の犯罪の対処に苦慮したり、北町奉行が平蔵たちの手柄に嫉妬するシーンがありますね。
これは火盗改が百姓や町人を対象としており、町奉行よりも手限権が弱い役職だったからです。
参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新
画像:photoAC,Wikipedia
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