ライト兄弟より先に飛行機の原理を発見し、日本の航空技術を切り拓いた二宮忠八の功績【後編】

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ライト兄弟より先に飛行機の原理を発見し、日本の航空技術を切り拓いた二宮忠八の功績【後編】

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ライト兄弟より先に飛行機の原理を発見し、日本の航空技術を切り拓いた二宮忠八の功績【前編】

飛行器の開発を断念した忠八は大日本製薬株式会社に入社し、努力の末に 支社長 へと昇進しました。この頃から彼は自動車業界にも興味を持ち、自動車販売や運送業 に進出します。

当時の日本では 自動車は西洋からの高価な輸入品 であり、ごく一部の富裕層しか手にすることができませんでした。忠八は 「これからは自動車の時代が来る」 と確信し、積極的に事業を展開。一定の成功を収めましたが、どんなに実業家として成功しても、彼の心の奥底には 飛行機への強い未練 が常に残っていました。

再び蘇った空への情熱 ― 「8号機」の開発計画

1910年、日本で 初の動力飛行 が成功すると、忠八の心に再び火が灯ります。「やはり自分の発想は間違っていなかった」と確信した彼は「8号機」と呼ばれる動力飛行機 の開発計画を立てました。

この 竹と絹で作った軽量な機体に蒸気エンジンやガソリンエンジンを搭載 する構想は、画期的なものでしたが、再び 資金の壁 に阻まれます。

当時の日本政府は フランスなど先進国の航空技術を取り入れて軍用飛行機を開発 する方針を採り、個人発明家が飛行機を開発する余地はほとんどなくなってしまいました。こうして 8号機計画は幻に終わります。

その後も忠八は航空業界の動向を調査し、若い技術者に助言を送るなど、航空技術への情熱を持ち続けました。1933年には自らの研究記録を整理し、「自分こそが飛行機の発明者だ」と公表します。

1935年にはようやく、 日本航空協会が彼の功績を正式に認め表彰しました。翌年には 英国王立航空協会が彼を「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」として紹介しています。

1936年、忠八は、ライト兄弟に先んじて飛行機を考案しながらも実用化できなかったことに対する無念を抱えたまま生涯を終えました。

新しい技術や発明は、最初は理解されないことが多いものです。しかし、それが 後に世界を変える可能性を秘めていることも忘れてはなりません。二宮忠八のこのエピソードは、 革新的なアイデアを持つ人々を支援することの大切さを教えてくれます。

もし、当時の日本が彼を認めて支援していたら、世界初の飛行機は日本で誕生していたかもしれません

飛行機の発明以来、航空事故が相次ぐ現状に心を痛めた忠八は、事故犠牲者の慰霊こそが飛行機開発に携わった者としての責務だと考えました。彼は多くの犠牲者を弔うため、1915年に京都府八幡市飛行神社を設立。私財を投じて社殿を建て、自ら神主となり、航空安全と犠牲者の慰霊に尽力しました。

参考文献

生駒忠一郎『二宮忠八・伝 世界の飛行機発明の先駆者』(2002 KTC中央出版) 上山明博「飛行機の父、二宮忠八」『<朝日選書> ニッポン天才伝─知られざる発明・発見の父たち』(2007 朝日新聞社) 木立順一『日本偉人伝 利他の心の文化が生んだ世界に誇る人物』(2014 メディアポート)

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