鬼平・長谷川平蔵が奉行になれなかった理由。時の老中との微妙な関係が平蔵の運命を分けた【前編】 (3/3ページ)

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事実、平蔵はそれまでの火盗改と異なり、自ら無提灯で夜廻りをするなどして街の事情に通じていたようです。

解任そして再任

『鬼平犯科帳』の「盗法秘伝」の冒頭では、平蔵が老中・松平定信に呼び出され、激務である火盗改の任に就いた平蔵を休養させるために、解任されるシーンがあります。

そして平蔵は父・宣雄の墓参りのために京都への旅路に出ました。

『鬼平犯科帳』の世界を再現した羽生パーキングエリア

ところが、平蔵がいなくなった江戸の街では凶賊・火盗六兵衛が暴れ回って治安が悪化。「駿州・宇津谷峠」で平蔵は火盗改に再任されることとなりました。

これは史実に基づいており、平蔵は火盗改の加役(仮役)になった翌年の天明8年(1788年)4月に解任され、その半年後に再任されています。

ここから50歳で死去するまでの8年間、平蔵は火盗改の激務を担うことになったのです。

ここまで見ていくと、平蔵は田沼意次や松平定信からその才を見抜かれ、火付盗賊改めの長官に引き立てられたかのようですね。

しかしひとつ疑問が残ります。なぜそれほどの才覚があった長谷川平蔵は「奉行」になれなかったのか、という点です。

火付盗賊改方の頭(長官)という役職は、本来は臨時のものでした。しかし長谷川平蔵は長期に渡ってこのポストを任され、そこから動くことは生涯なかったのです。これも考えてみると不自然な感じがします。

これが実は、松平定信と長谷川平蔵の微妙な関係が原因なのです。

詳しくは次回の【後編】で解説します。

参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新書
画像:photoAC,Wikipedia

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