日本初の首都「難波宮」の場所はどのように発見されたのか?古代日本の重要な史跡発見の経緯

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日本初の首都「難波宮」の場所はどのように発見されたのか?古代日本の重要な史跡発見の経緯

大阪の中心地、法円坂。ここには日本の古代歴史を感じさせる重要な遺跡があります。その名も「難波宮(なにわのみや)」。ここが、かつて日本の政治の中心だったことをご存じですか?

大阪歴史博物館からみる難波宮跡

一説には、応神天皇の行宮や仁徳天皇の住まいがこの辺りにあったとも言われています。そして、飛鳥から奈良時代にかけて、日本の「政治」と「儀式」の中心でもあったのです。また、難波宮から日本という国号、元号、の使用が始まったともいわれています。

ところが、難波宮の存在は、『日本書紀』にも記録がありながら、長い間その場所は謎に包まれていました。研究者の間でも、「難波宮はどこにあったのか?」と長らく議論されていたのです。

大阪歴史博物館入口の法円坂遺跡

発見のきっかけとなったのは、1913年に法円坂で発見された瓦の破片。ここから少しずつ調査が始まりましたが、戦争の影響で一時期は中断。

そしてついに1945年、第二次世界大戦が終結した後、ようやく本格的な発掘が始まりました。山根徳太郎という学者を中心に、難波宮跡の調査が進んでいったのです。

1954年、ついに「鴟尾(しび)」という宮殿の装飾が発見され、その存在が確実視されたのです。難波宮の最も古い部分が「前期難波宮」です。これが、まさに日本の最初の首都とも言える場所でした。

前期難波宮模型(大阪歴史博物館)wikipediaより

この宮殿は、白雉3年(652年)に完成し、元号の始まりとされる「大化の改新」がここで行われました。政治と儀式が行われる場所として、最初に明確に分けられた構造が特徴です。内裏(天皇の住まい)と朝堂院(政治の場)がしっかりと分かれて配置され、後の天皇の住まいの設計に大きな影響を与えました。

その後、難波宮は火災に見舞われますが、再建されます。この時代の難波宮を「後期難波宮」といいます。この時代の難波宮は、聖武天皇が新しい都を作るために築いたもので、平城京の副都としての役割も果たしました。しかし、難波宮への遷都は一時的なものに過ぎず、その後は再び都が変わっていきます。

難波宮遺跡で復元された大極殿と八角殿

現在、難波宮跡は「難波宮跡公園」として整備されており、その一部は大阪歴史博物館が建てられました。館内の地下1階では、発掘された遺跡を見ることもでき、古代の歴史を身近に感じられる場所として、多くの観光客や歴史愛好者が訪れています。

また、難波宮跡周辺には「法円坂遺跡」や「大阪城公園」などもあり、古代のロマンを感じさせます。

難波宮跡に立つと、遥か昔の人々がどんな生活をしていたのか、どんな思いでこの地を選んだのかを考えることができます。

難波宮遺跡

住所:大阪市中央区法円坂1
アクセス:Osaka Metro谷町線「谷町四丁目」駅すぐ、JR大阪環状線「森ノ宮」駅より徒歩5分

参考文献:中尾芳治『難波宮の研究』(1995 吉川弘文館)

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