箸墓古墳は”卑弥呼の墓”で決まりか?日本最大・最古クラスの古墳の秘密に最新学説が迫る【後編】
年代の不一致
【前編】では箸墓古墳と卑弥呼の関係について説明しました。【後編】では、卑弥呼が活躍した時代と箸墓古墳が造営された時代の年代のズレについての考察などを見ていきましょう。
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箸墓古墳は”卑弥呼の墓”で決まりか?日本最大・最古クラスの古墳の秘密に最新学説が迫る【前編】これまで弥生時代は紀元前300年頃~紀元300年頃と言われ、それに続く紀元4世紀~7世紀頃が古墳時代と言われてきました。
ということは、卑弥呼は弥生時代の女王であり、亡くなったのも墓が築かれたのも弥生時代ということになります。
つまり、弥生時代に築かれた卑弥呼の墓と、古墳時代前期に築かれた箸墓古墳とでは、年代が合わないというわけです。
箸墓古墳の築造年代については、定説では4世紀、早くとも3世紀の後半以降と考えられており、卑弥呼の没した247、8年頃とは少なくとも30年くらい開きがあると指摘されました。
築造年代の修正卑弥呼の没年墓の築造年と箸墓古墳の築造年との年代の開きは、「箸墓古墳=卑弥呼の墓説」の弱点でした。
ところが、その説を補強することになったのが弥生時代の年代の見直しです。放射性炭素測定法(C14法)や年輪年代法などの導入によって、弥生時代の始まりがこれまでの定説よりも早まってきたのです。
また、箸墓古墳と同時期に築かれたとされてきた兵庫県神戸市の西求女塚古墳や奈良県天理市の黒塚古墳などから出土した三角縁神獣鏡の研究成果もあり、この時期に築かれた古墳の年代が30~40年くらい遡ることも分かってきました。
さらに、箸墓は全長280メートルの巨大な古墳であり、その築造には10年くらいかかってもおかしくありません。
そう考えれば、卑弥呼が亡くなった10年後に墓が完成したとしても不自然ではないと言えます。
そんななか、2009(平成21)年、国立歴史民俗博物館は、箸墓古墳は240~260年に築造されたと発表しました。
同博物館が全国の5000点以上の土器の付着物や年輪の年代を測定した結果として、箸墓古墳から出土した「布留式」と呼ばれる土器が使われた期間は240~260年だと発表されたのです。
卑弥呼が亡くなったのは247~8年頃ですから、箸墓古墳の築造年代とぴったり一致しますね。
箸墓古墳が3世紀中頃の古墳であるならば、同古墳は日本最古の大型前方後円墳なので古墳時代の始まりも早まることになります。
実際、この時期には、箸墓古墳を含む纒向遺跡にホケノ山古墳、勝山古墳などが築かれており、いまや古墳時代の始まりは3世紀中頃と考えておかしくありません。
邪馬台国の位置箸墓古墳の築造年代が卑弥呼の没年墓の築造年代と大接近したことで、いよいよ見えてきたのが邪馬台国の所在地です。
2009(平成21)年、纒向遺跡から3世紀前半の大型建物跡が発掘されました。その広さは南北12メートル、東西22・4メートル。国内最大級の建物跡です。
畿内説によれば、纒向遺跡は卑弥呼が住んでいた都の跡だと言います。ところが、邪馬台国の女王の都なのに、これまで宮殿のような大型建物跡が発見されていませんでした。
畿内説にとってこの大型建物跡は、箸墓古墳の築造年代と卑弥呼の没年の開き同様に弱点のひとつだったのです。
なので当然、畿内説の専門家や研究者は発見された大型建物跡を卑弥呼の居館と見ます。
それに対して九州説は、大型建物跡は九州からも発掘されており、それだけで邪馬台国の所在地とすることはできないと反論しています。
しかし、2014(平成26)年2月、奈良県桜井市教育委員会は、この大型建物跡のすぐ近く(36・5メートル東側)から建物跡が見つかったと発表しました。
この建物跡は、先に見つかっていた大型建物跡やその西側の小中規模の2つの建物跡などと同一線上に配置されていました。
今回発見された建物跡は南北6・7メートル、東西3・4メートル。先に見つかっている国内最大級の大型建物跡には及びませんが、専門家によれば「この時代では異例の広さ」だと言います。この発見により畿内説がより有力になったことは間違いないでしょう。
参考資料:日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い! 変わる日本史』宝島社 (2014/8/20)
画像:photoAC,Wikipedia
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