鬼平・長谷川平蔵は犯罪者の更生施設も設立していた!江戸時代の「人足寄場」の実態【前編】 (2/3ページ)

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前編ではその設立背景と運営の概要を、後編では資金繰りの工夫や成果を見ていきます。

更生への新しい視点

18世紀後半には浅間山の噴火や天明の大飢饉などの災害が相次ぎ、無宿が増加して社会不安が高まっていました。

彼らは江戸に集まってきて窃盗や放火などの罪を犯したり、物乞いになって町を徘徊するなどして治安を悪化させていたのです。

幕府も無宿の対処には手を焼いていました。

従来は佐渡金山に送るなどの更生対策を講じています。しかし、金山での労役は非常に過酷なので、更生というよりは単なる懲罰に近かったと言えるでしょう。

そこで、罰を与えるだけでは抜本的な解決には至らないと考えた長谷川平蔵は、犯罪者の更生を目指した収容施設を作ることを老中の松平定信に提案しました。

松平定信(Wikipediaより)

この発想は当時としてはかなり先進的なものでした。鬼平の提案が人道主義的な発想ゆえのものだったのか、それとも社会的コストの観点から功利主義的に導き出されたものだったのかは不明ですが、とにかく現代的な発想だったと言えるでしょう。

そうして寛政2年(1790年)、石川島に人足寄場が設置されました。

当初は100人余りが収容され、幕末には400人ほどを収容できるようになっています。

職業訓練と生活指導

寄場内では、無宿に手に職を付けさせるため、大工や建具・塗物・紙すきなど22職種の訓練が行われました。

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