鬼平・長谷川平蔵は犯罪者の更生施設も設立していた!江戸時代の「人足寄場」の実態【前編】

治安悪化と無宿の増加
本稿では、長谷川平蔵が設立した人足寄場について前編・後編に分けて説明します。
『鬼平犯科帳』で有名な、火付盗賊改の長官でもある長谷川平蔵。
大河『べらぼう』にも登場、放蕩息子・長谷川平蔵はどう出世した?鬼の平蔵 誕生秘話【前編】彼の大きな業績の1つが、人足寄場を設置したことです。
人足寄場はいわば昔の刑務所で、軽犯罪人や無宿を収容して自立支援を行うものでした(ちなみに無宿とは「宗門人別改帳」から除籍された人のことで、現在のホームレスとは意味合いが異なる存在です)。
人足寄場は通称で、正式には加役方人足寄場といいました。

江戸時代の治安対策としてこの施設は設置されましたが、単なる刑務所ではなく、犯罪者の更生を目指した、世界的にも画期的な試みだったのです。
前編ではその設立背景と運営の概要を、後編では資金繰りの工夫や成果を見ていきます。
更生への新しい視点18世紀後半には浅間山の噴火や天明の大飢饉などの災害が相次ぎ、無宿が増加して社会不安が高まっていました。
彼らは江戸に集まってきて窃盗や放火などの罪を犯したり、物乞いになって町を徘徊するなどして治安を悪化させていたのです。
幕府も無宿の対処には手を焼いていました。
従来は佐渡金山に送るなどの更生対策を講じています。しかし、金山での労役は非常に過酷なので、更生というよりは単なる懲罰に近かったと言えるでしょう。
そこで、罰を与えるだけでは抜本的な解決には至らないと考えた長谷川平蔵は、犯罪者の更生を目指した収容施設を作ることを老中の松平定信に提案しました。

この発想は当時としてはかなり先進的なものでした。鬼平の提案が人道主義的な発想ゆえのものだったのか、それとも社会的コストの観点から功利主義的に導き出されたものだったのかは不明ですが、とにかく現代的な発想だったと言えるでしょう。
そうして寛政2年(1790年)、石川島に人足寄場が設置されました。
当初は100人余りが収容され、幕末には400人ほどを収容できるようになっています。
職業訓練と生活指導寄場内では、無宿に手に職を付けさせるため、大工や建具・塗物・紙すきなど22職種の訓練が行われました。
また寄場外では、川ざらい・材木運搬・船頭・外使い・野菜づくりなどの7職種の訓練を実施。
さらに、市民道徳を説く心学者の講義を受けさせるなど、生活指導も行っています。
収容期間が満了すると、江戸での商売を希望する者には土地や店舗が与えられました。また農民になる者には耕作地が、さらに大工になる者には道具が支給されています。
ただし、収容された無宿はガラが悪かったので、寄場の内外でのトラブルも絶えなかったそうです。
ここまで人足寄場の設立背景とその運営の概要について説明しました。一方で、平蔵が直面した資金面での苦労や、具体的な運営方法についても【後編】で説明します。
参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新書
画像:photoAC,Wikipedia
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